「見る」ことで、何かが壊れる
ある動画の中で、人々が屠殺場の映像を見ている。
泣き崩れる人がいる。
言葉を失う人がいる。
しばらく立ち上がれない人がいる。
不思議なのは、彼らが「新しい情報」を得たわけではないという点だ。
肉が動物から作られることは、誰でも知っている。
でも「知っている」と「見る」は、まるで違う。
映像が感情に直撃したとき、それまで頭の中だけにあった事実が、初めて現実になる。
あるコメントにこんな言葉があった。
「知ることと、感じることは違う。知っていても感じていないことはある。
でも自分の目で見たとき、ずっと知っていたことをようやく感じる」
3週間、泣き続けた女性の話
コメントの中に、一人の女性の長い告白があった。
ある日ふとしたきっかけで食肉産業を調べ始めた彼女は、気づいたら止まれなくなっていた。
翌日、家の中の動物性食品と化粧品をすべて捨てた。
その後3週間、毎日何度も泣いた。
外で犬が吠える音を聞くだけで、連鎖反応のように涙が出た。
「犬をあれほど愛しながら、牛を食べていた。
インドでは神聖な牛が、どのように屠殺されているかを知った。
雄の子豚が、豚肉の臭みを消すために去勢される様子を知った」
しかし彼女の話はそこで終わらない。
ヴィーガンになってから、量子物理学を学び、歴史を学び、企業の仕組みを学び始めた。
「40年間で学んだことより、この数ヶ月で学んだことの方が多い」と書いていた。
飲酒も喫煙もやめ、有害な人間関係も見直した。
食の選択を変えたことが、人生全体を動かした。
「どうせ忘れる」という冷笑
こういった映像への反応を見ながら、「どうせ1週間後には肉を食べてる」と書くコメントも多い。
「演技だ」「洗脳だ」という声もある。
確かに、感情が動いても行動が変わらないことはある。
涙を流しながらも翌週には元の食生活に戻る人もいるだろう。
人間の習慣はそれほど強固だ。
しかしコメントを見ていると、
「あの動画を見て8年半ヴィーガンを続けている」
「3年前は笑っていたのに、今はヴィーガンだ」
「夫は一番のステーキ好きだったが、4ヶ月後に自分からヴィーガン宣言した」という声が無数にある。
感情が揺れた瞬間は、すぐに行動に結びつかなくても、頭の中に刺さったまま抜けないことがある。
「味がいいから」では越えられない壁
「肉は美味しいから食べる」という意見は正直だと思う。
少なくとも「動物は苦しまない」「必要だから仕方ない」という言い訳よりは。
ただ、あるコメントがこう指摘していた。
「自分が肉を食べ続けるのは、味への欲求に勝てないからだ。
それを認めずに、進化だの自然だのと理屈をこねるのは弱さの表れだ」と。
厳しい言葉だが、一つの真実を含んでいる。
倫理的に問題があると「感じながら」続けるのと、本当に何も感じていないのは、まったく違う。
変化は、いつも「見ること」から始まる
目を背け続ければ、何も変わらない。
それは個人の選択だ。
しかし一度でも直視した人間は、何かが変わる。
すぐではないかもしれない。
でも、見てしまったものは消えない。
54歳で初めてヴィーガンになった人、
8ヶ月のベジタリアン生活の後に肉を口にしようとしてトイレに駆け込んだ人、
生まれた子どものタイミングでヴィーガンに切り替えた夫婦——
それぞれのペースで、それぞれの入り口から、変化は起きている。
知ってしまったら、もう戻れない。
それは呪いではなく、自由への入り口だと思う。
