愛しているのに、なぜ殺すのか
「動物が好きだ。美しい生き物だと思う」と言いながら、「でも仕事だから殺す」と続ける。
この矛盾を指摘されたとき、多くの人は怒る。防御的になる。話をそらす。それは後ろめたさの裏返しだ、とも言える。
ある動画の中で、ヴィーガン活動家と一人の農家が路上で議論を交わした。農家は最初、強く反発した。
しかし長い対話の末、「あなたの言っていることはわかる」と言った。
その一言に、コメント欄は静かに沸いた。
「自然だから正しい」という逃げ道
肉食を擁護するとき、最もよく使われる論理の一つが「自然だから」というものだ。
「ライオンだって肉を食べる」「人間も進化の過程で肉を食べてきた」——確かにそうだ。
しかしよく考えてほしい。
人間が他の動物と決定的に違うのは、選択できるという点だ。
ライオンには植物性食品だけで生きる選択肢がない。
現代を生きる多くの人間には、ある。
「できるからやる」は、倫理的な正当化にはならない。
かつて奴隷制度も「当たり前」だった。
女性が選挙権を持たないことも「自然な秩序」とされていた。
時代が変わり、意識が変わり、「当たり前」は書き換えられてきた。
「動物は死にたくないかどうかわからない」という主張
動画の中で農家はこう言った。
「動物が死にたくないかどうか、どうやってわかるんだ」と。
これを聞いて笑ったコメントが多かった。
当然だ。屠殺場から逃げようとする牛、追い詰められて暴れる豚、捕まえられまいとする鶏——
その行動が答えそのものだ。
痛みに反応し、恐怖に反応し、死から逃げようとする。
それ以上の証拠が必要だろうか。
「わからない」という言葉は、多くの場合「考えたくない」という意味だ。
農家もまた、苦しんでいる
しかしこの対話で見えてきたもう一つの側面がある。
農家自身の葛藤だ。
動物を愛しながら、それを生業として殺す。
その矛盾の中で生きることは、精神的に楽ではないはずだ。
あるコメントはこう書いていた。
「あの農家は傷ついた魂のように見えた。動物を愛しながら殺さなければならない仕事は、どれほど辛いだろう」と。
責めるだけでは何も変わらない。
システムの中に組み込まれた人間もまた、そのシステムの犠牲者でもある。
メキシコで代々牛や豚を育ててきた農家がキノコ栽培に転換した、という話がコメントにあった。
変化は可能だ。
「わかってはいるけど」の先へ
この動画を見て興味深いのは、肉食者からも「Edの言っていることは正しい」という声が多く上がっていた点だ。
「毎日肉を食べているけど、完全に同意する。あの農家の言い訳は話にならない」と書いた人もいた。
わかっている。でも変えられない。
その壁はどこから来るのか。
習慣か、文化か、便利さか。
一人の農家が「あなたの言っていることはわかる」と言った瞬間、何かが動いた。
理解は変化の入り口だ。
すぐには変わらなくても、一度入り込んだ問いは消えない。
それが、対話の力だと思う。
