三島由紀夫と文学 ② | 中杉 弘の徒然日記

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豊穣の海 本人の説明 【三島由紀夫】

 

 

 

三島由紀夫と文学 ②

 

ここで文学のテーマである、「人間のテーマ」を出すならば、「愛」もあれば、「死」もあります。それから、「挫折」もあれば、「絶望」もあります。人間のテーマは、大きくわけると、これくらいに分けられるのです。

愛の中には、親の愛、子弟の愛、恋愛も含まれます。人間は結婚をすれば家庭を持ち、子供も生まれます。すると、旦那さんの悩みもあれば、子供の悩みもあります。悩みを抱いて、煩悶することもあるでしょう。「テーマについて、作家はどう挑むのか?」というのが、文学です。

「俺はこのようなテーマを解決するのだ。俺の文学は面白いだろう」と作家は、文学作品を世の中に出してきます。作家は、様々なテーマにぶち当たり、「最高の満足感を得たい」と思って文学作品を書いているのです。

「俺の文学がわかるのか? みんな、ここまではこれないだろう。参っただろう」ということです。「すみません、三島先生のおっしゃっていることは難しくてわかりません」と言われると、「そうだろう。俺の文学作品がそんなに簡単にわかってたまるか」と思っているのです。

それでも、「教えてください」と食い下がってくるのが、文学少年、文学少女です。作家というものは、その上にいて、最高のテーマを取り上げて、文学作品として見せてくれるのです。

何故ならば、人間の死は人間の自由になりません。恋愛も、家庭も、憎しみも普通の人にとっては、自由になりません。それらは、人生のテーマにはなりません。作家は、「テーマにはならない」というものを、丹念に拾って、文学作品として大衆に示して、「ほら、どうだい。このテーマはこんなに面白いだろう」と、見せてくれるのです。文学作品と民衆は、そのような関係です。

作家は最高のものを求めていくのですが、残念なことに最高のものは得られません。小説では、最高の境地を求めることはできません。「最高の境地を得られるものは何か?」というと、キリスト教、唯神論、仏教、神道などの宗教です。

それ以外のものが、共産主義です。「全てのものは、物である」と思っているのが、共産主義者です。共産主義者たちは、「人間の心などない」と思っているのです。共産主義者は、人間を物だと思っているので、文学も芸術も生まれません。

様々な文学作品を読んだ人は、人間味があるのです。作家の文学作品に共感すると、だんだんと自分の中に世界が出てくるのです。オスカー・ワイルドの小説があります。我々は、世界を見て「美しい」などとは感じていません。

「湖があり、男女がいて、恋愛の感情が芽生えて、そこに夕日が沈んでいく」という風景を小説の場面で読むと、「これは、美しい風景だな」と思うのです。

すると、「自分もそれをやってみたい」と思って、湖のほとりに行き、夕日を彼女と二人で眺めているのです。すると、「何を思い出すのか?」というと、オスカー・ワイルドの言葉を思い出すのです。

自分だけで湖のほとりにいても、何も生まれません。そこでオスカー・ワイルドの小説を思い出して、夕日につつまれた湖を彼女と見るから「美しい夕日だな」と思うのです。「そうだ、これはオスカー・ワイルドの小説で見た風景だった」と思い出して、「美しい風景だな」と思うのです。芸術家の役割は、そのようなことです。

三島由紀夫先生の文学作品には、「生まれて、死ぬ」という最大のテーマが入っているのです。

普通の人には、三島文学はわかりません。わかるわけがありません。三島由紀夫先生のテーマは、「人間が死んだらどうなるのか?」ということです。他のテーマはわかっても、「人間が死んだらどうなるのか?」ということは、誰にもわかりません。

それは、哲学や仏教を知っている人でもわかりません。大手の某銀行の元ニューヨーク支店長だった人でも、「人間が死んだら何もないのだよ」と言っていたのです。「人間は死んだらお終い」だと思っているのです。その程度の認識です。死というテーマを真剣に考えていません。

三島由紀夫先生は、「人間が死んだらどうなるのか?」というテーマに真剣に取り組んで、実行したのです。文学者と言っても、そこまでいきません。

そこまでいかない文学者は「人生は深淵だな。俺にはこれ以上はわからない。いっそ死んでしまおう。死んでしまえばわかるだろう」と思うのです。それで文学者の自殺が多いのです。文学者が自殺するのは、そのような理由です。これ以上、生きていると苦悩がでてくるのです。「自分では解決できない」とわかっているのです。小説を書いても、解決はできません。

文学や芸術では、解決できない問題があります。それを解決できるのは、宗教です。文学者は、そこまで到達できません。三島由紀夫先生は、「死」という最大のテーマを追求して、実行したのです。三島由紀夫先生の『豊饒の海』四部作では、主人公が4回、生まれ変わるのです。

でも、同じ人間だというのです。それは生まれ変わりです。三島由紀夫先生は、そのような難しいテーマにぶつかって、「生と死の問題の本質を明らかにしよう」としたのです。三島由紀夫先生は、本物の作家です。

本物の作家とは、そのようなものです。川端康成のように、「伊豆の踊子がどうした」という恋愛小説を書いているのではありません。三島由紀夫先生は、生と死を明らかにしようとして、割腹自殺をしたのです。

人間のテーマを追求していくと、必然的にそうなるのです。この場合は、宗教でなければ解決できません。人間が文学的なテーマを追求して、生死のテーマを解決しようと思っても、できる問題ではありません。

そのようなことを僕はわかっていたから、法華経だと言っているのです。法華経を修行しないと、人生最大の問題である生死の問題は解決できません。

芸術家は、芸術を通して、解決しようと思ったけれども、「死」の問題だけは芸術的手法では解決できません。それに真っ向から挑む人が、偉大な文学者です。そのような偉大な文学者は、もういません。

『太陽の季節』という石原慎太郎の小説もそうです。当時、そのような人間はいなかったのです。そのような行動をする人間はいなかったのですが、自分の弟を見たら、そのような行動をやっていたのです。

石原慎太郎は、小説家として「面白いな」と思ったから、取り上げたのです。あんな人間は初めて出てきたのです。新しい人間の悩みから、石原裕次郎を生み出したのです。石原慎太郎は、立派な作家でしたが、根本のところが、わかっていません。三島由紀夫先生の境地までいかないと、生死の問題に到達できません。

このようなことを考えている人は、人間が違います。僕は「お金が儲かる」とか、「儲からない」とか、頭の隅にもありません。大事なことは、人間の生き方です。僕は文学者ではありませんが、最近考えていることは、立派な人間をつくることです。これが、正理会の目的です。

偉い人間をつくるのではありません。社会的に成功して、笹川良一のようになることではありません。そんな人間になろうとは思っていません。或いは、池田大作のような人間をつくろうとも思っていません。

目的は立派な人間を創ることです。これが正理会の目的です。そうでないと、人生は完結しません。「あいつは誰よりも立派な人間であったな」と言われれば、よいのです。そのようなところに焦点を置いて励むのです。

立派な人間には、なかなかなれません。「立派な人間になる」ということは、大変なことです。たまには、このようなことをじっくりと考えるのもよいでしょう。文学の真夏の夜の夢でした。

 

 

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