日本男児伝 特攻隊のために命を懸けた関行男大尉 | 中杉 弘の徒然日記

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十死零生 神風特別攻撃隊 誕生 特攻1号 日本海軍 関行男大尉

 

 

日本男児伝 特攻隊のために命を懸けた関行男大尉

 

 陸上自衛隊大宮駐屯地に所属する第32普通科連隊は、硫黄島で3月に行われた戦没者の追悼式について、4月5日にSNSに投稿した際、硫黄島を「大東亜戦争最大の激戦地」と表現しました。

 日本は戦時中「大東亜戦争」の呼称を使用していましたが、戦後、GHQ=連合国軍総司令部が使用を禁止し、政府は「現在、一般に政府として公文書で使用していない」としています。

4月5日の投稿について、インターネット上では「侵略戦争の正当化につながる」などと、批判するコメントが相次ぎ、部隊は「誤解を招いた」として8日夜に投稿を削除し、該当部分を修正したうえで改めて投稿しました。(2024年4月8日、NHKニュースより)

ふざけた話です。東條英機元首相のお孫さんである東條由布子さんも言っていました。「先の大戦は、大東亜戦争でした。東条英機は何も悪いことはしていません。戦争に負けたことが、唯一の悪いことでした」とハッキリ言っています。

 当時の白人の植民地は、ひどいもので「東洋人は煮ても焼いても殺しても、一切お咎めはない」という決まりだったのです。手を斬り落とすという刑罰もあったのです。生意気なことを言う奴隷は、手を斬り落としてしまったのです。

 東南アジア諸国の人々は、白人の奴隷だったのです。殺そうと鞭を打とうと、宗主国には逆らえないというのが、現状だったのです。白人の植民地支配は、本当にヒドイものだったのです。それを見て日本人は立ち上がったのです。これが明白な事実です。

 先の大戦は、大東亜の解放のために行われた戦争です。当時の東南アジア諸国は、白人の植民地だったのです。日本は欧米の植民地の鎖を切ったのです。それをわかっていたパール判事は、東京裁判で「日本は悪くない」と発言したのです。

 日本軍は、すごいことをやったのです。先の大戦は、太平洋戦争ではなくて、大東亜戦争だったのです。

 日本を終戦させようと、アメリカで計画した連中がいたのです。「日本を何としても降伏させたい」と思って、指揮を取ったアメリカ人がいたのです。

 日本に電報を打ち、打診したのです。それで、「日本人は天皇陛下が大事なのだな」ということがわかったのです。軍部に電報を打って「天皇は処刑しない。皇族も処刑はしないから降伏をしてくれ」と降伏勧告をしたのです。それは、ウソだったのです。「天皇を処刑しろ」という意見は、GHQが東京裁判をした頃も根強くあったのです。

 だから、原爆を落とされて日本が降伏したのではありません。それだけならば、日本は降伏していません。「天皇陛下を処刑する」と言うので戦ったのです。原爆を落とされても軍部はまだ戦えたのです。

 日本には大東亜の解放という正義があったのですから、戦いは止められません。「どのような正義なのか?」というと、「大東亜を白人の植民地から解放する」という正義があったのです。日本人は一丸と西欧列強と戦ったのです。

 アメリカは、「天皇陛下だけは、絶対に処刑しない」と言っておいて、終戦に持ち込もうとしたのです。

 終戦当時の日本の戦力を見てもわかります。戦闘機の数もたくさんあったのです。その他、中国大陸には、300万人の軍人がいたのです。300万人が日本に帰ってきて、大本営を長野県の松代に移せば、まだ戦えたのです。

 松代に大本営を移して、大元帥陛下をお招きして、地上戦にもつれこんだら、米軍の空爆など効かなくなってしまったのです。山中に日本軍が入ってしまえば、陸地に空爆しても誰もいません。米軍が日本に上陸しても、山中から日本軍がでてきてバンバンと撃ったら、戦争はまだ終わらなかったのです。

 その戦法は、硫黄島の戦いでわかっているのです。硫黄島の死傷者は、米軍のほうが多かったのです。

日本軍の戦力―22,786人、米軍の戦力―110,000人

日本軍の戦死―19,900人、捕虜―1,033人

米軍の死傷者―26,038人

米軍のストレス反応―2,648人

https://www.youtube.com/watch?v=MWkgaFzptQM(中杉弘の毒舌!人生相談)

 

米軍の死傷者のほうが、はるかに多かったのです。もし、戦争が継続されていたら、米軍兵士は、1億人死んでしまいます。

 日本人を1億人殺そうとするならば、米軍も1億人死ぬことになったのです。1億人も米軍の兵隊が死んだら、民主主義国家のアメリカでは許されないことです。国内中から、「戦争を止めろ」という運動が起きてくるから、アメリカは戦争ができなくなってしまうのです。それを一番恐れたのです。大本営を地下に移したら、戦争はまだ続行できたのです。

硫黄島の戦闘を真似したのが、ベトナム戦争です。それをやったら、ベトナムは米軍に勝ってしまったのです。遂に米軍はベトナムから、命からがら逃げだしたのです。

 それを記念してベトナム軍は、日本の軍歌を歌っていたのです。ベトナム軍をつくったのも、小野田寛郎少尉がいた、陸軍中野学校の残置諜者です。

 終戦の直前に陸軍中野学校の残置諜者が、東南アジア諸国に散ったのです。「残置諜者は、現地人になりすませ。どんなことがあっても降伏するな」と言われたのです。

 北朝鮮も陸軍中野学校の残置諜者が造ったのです。北朝鮮は日本だったのです。戦争が終わる前に、多くの残置諜者が入り込んでいたのです。原爆で日本はやられたのですから、「北朝鮮は絶対に原爆を造る」というのが、金策(キムテク)の計画だったのです。金策(キムテク)の本名は、畑中理さんだと言われています。

 北朝鮮にはウランもあります。弱小国家が原爆を造ったのはそのためだったのです。日本は原爆でやられたのです。金策(キムテク)の教育により北朝鮮の幹部は皆、知っていたのです。

 金策(キムテク)は、北朝鮮に貢献してきたので、金策(キムテク)市、航空大学、金策(キムテク)号という船まであります。原爆を持たないと日本がやられてしまいます。「戦争に負けたのだから、日本では原爆を持つことはできない。北朝鮮で原爆を造るのだ」ということをやったのです。

 日本人は大東亜の解放のために戦ったのです。その中で特攻隊が生まれたのです。特攻隊に関行男大尉がいました。

 関行男大尉は、1921年8月29日、愛媛県新居郡大町村で、父・勝太郎(骨董商)と母・サカエの一人息子として生まれたのです。

関行男は勉強ができ、文才もありました。小学生のころから、級友がわからないところがあると親切に教えてくれたので、特に女生徒から「ゆうちゃん」と呼ばれて大変人気があったのです。その上、男の友達が困っているときは率先して助けてくれるような男気も持ち合わせていました。

中学生時代は、150名の全生徒の中で常にトップクラスの成績でした。父は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった海軍兵学校に行くつもりでした。父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したのですが、「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論したのです。

この人が、23歳で死んだのです。大尉はまず死にません。「でも死んでくれ」と言われたのです。そうでないと18~19歳の若者に「特攻せよ」と命じるのでは、恰好がつきません。「将校で一人死んでもらいたい」と言われたのです。関大尉は、「わかりました」と言って、特攻で死んだのです。

関行男大尉は日本の海軍軍人、海兵70期です。最終階級は海軍中佐です。レイテ沖海戦において、初の神風特別特攻隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈して、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られている人です。

1944年10月17日、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着した。大西は一航艦長官に内定したときから航空機による特攻開始を考えており、米内光正海軍大臣や、及川古志郎軍令部総長の了承を取り付けていました。

マニラに向かう途中には台湾にも立ち寄りましたが、台湾沖航空戦の真っ最中で、日本軍戦闘機とアメリカ軍戦闘機の空中戦の様子を見学しました。

そこで日本軍戦闘機の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話しています。

大西は一航艦司令部で第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に戦局の説明を行った後、副官の門司親徳大尉を伴って、マバラカット飛行場に向かいます。到着の後、指揮所に二〇一空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と特攻作戦開始を提案したのです。

 玉井中佐は、「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と体当たり攻撃隊の指揮官として、関行男大尉に「白羽の矢を立てた」ことを告げたのです。関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したと言います。

関行男大尉が引き受けたことで玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」と、感謝の言葉を述べたと言います。

猪口中佐の「君(関)はまだチョンガー(独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたのです。その後、関行男大尉は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めたのです。遺書のほかにも、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残したのです。

関行男大尉は、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする第77.4.3任務群を発見して突撃機会を窺い、10時49分に列機と共に突入して戦死したのです。神風特攻隊として、見事な最期でした。享年23。

関行男大尉に続いた特攻隊の皆さんのおかげで今日の日本があるのです。軍神、関行男大尉、万歳!

 

 

関行男大尉 遺書

 

父上様、母上様

 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に

満里子殿   何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る  何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様  色々と思出をたどりながら出発前に記す  恵美ちゃん坊主も元気でやれ

教へ子へ

 教へ子よ散れ山桜此の如くに

 

 

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