仏法と申すは道理なり ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

【内緒】ニコラ・テスラが語る神の数字「369」の意味とは?

 

 

仏法と申すは道理なり ②

 

 心は一念三千です。これをわかりやすく言うと、南無妙法蓮華経ということです。「御本尊とは、何か?」というと、本当の心の世界に案内する鍵なのです。御本尊に向かって、「南無妙法蓮華経」と唱えると、不思議な心の世界が湧現してくるのです。

 そのような信仰をしていかないと、信仰する意味がありません。すると、毎日が楽しくなってくるのです。自分の心で生きているから、「憂鬱だ」とか、「つまらないな」とか、「退屈だな」となってしまうのです。

 自分以外にある、一念三千という心は永遠です。それに生きることが、法華経の行者です。すると、「死ぬ」ということがなくなるのです。「永遠の生命を得る」ということは、そのようなことです。

 自分の心に従っていたら、永遠の生命など得られるわけがありません。自分以外の心があって、それを師匠にして修行に励んでいくことを仏道修行というのです。そのときにうっすらと、何だかよくわからない心が見えてくるのです。

 人間は死ぬ時、自分の心がなくなるときに、「自分の心がどちらの心に近づいているのか?」ということが大事です。消えゆく自分の心を大事にしても、そんなものは消えて無くなってしまうのです。

 消えることのない、永遠の生命があります。それは、一念三千という巨大な心です。それが、本当の自分です。

 「ああそうか、私は向こう側にある仏様の心を目指して進んでいくのだな」と思えばよいのです。そして、自分の心を反省することが大事です。自分という個人がもっている小さな心は、我欲でしかありません。我欲では、幸せになることはできません。

 自分の向こう側にある永遠の生命を受容して、自分の心と、永遠の心を対比して生きていくことを人生というのです。

 「私は腹が立っている」「私は悲しい」と思うのは、貴方の心です。向こうにある心は、悲しみや、怒りなどありません。三千の心があるだけです。仏道修行をしていくと、鏡のように映し出されて見えてくるようになるのです。

 その一念三千のことを、南無妙法蓮華経というのです。これは、全人類が学ばなければいけない、究極の教えです。

 御本尊の秘密の扉を開けると、南無妙法蓮華経がでてくるのです。「南無妙法蓮華経とは、どのようなものなのか?」というと、そのままです。ところが、「南無妙法蓮華経とは何か?」ということが、日蓮宗系の教団も全くわかっていません。

 これは極意です。「因果俱時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)というのです。永遠の世界というものがあります。そのような世界があると安心でしょう。

 永遠の世界は、浮き沈みしません。それは、全体だからです。よって、自分はなくなりません。お釈迦様が説かれた、『妙法蓮華経如来寿量品第十六』の、永遠の生命とは、そのようなものです。

 そこに自分の心を置いて、仏道修行をしていくのです。わかりましたか? これは、本当に仏教の極意です。みんな「私の心が大事だ」と言っているのです。私の心を大事にして、我欲を追い求めているのです。何をバカなことをやっているのでしょうか?

 永遠の生命を見て、自分の心を見て、対比させていくのです。それを「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(兄弟抄)というのです。

 私の心はダメなもので、他に完璧な心があるのです。それと比較して、自分の心を反省していくのです。これが仏道修行です。反省行をやらない人は、何年仏道修行をしても、変わりません。悟ることは、絶対にできません。

 偉大な永遠の生命をもった心と、自分の心との比較をしていくのです。すると、「あんなくだらないことで怒っていた自分が恥ずかしい。永遠の仏様の生命から見たら、ゴミみたいなものだ」と思えるようになってくるのです。

 ヤクザは縄張りをめぐって殺し合い、極道をやっているのです。極道とは、地獄道です。地獄という道を極めるのが、極道です。

 自分の心の側には、幸せになることはできません。自分の外にある一念三千という心は、偉大な心です。そのことを説いたのが、法華経です。法華経の行者と言いたければ、そのことをわかっていないといけません。

 自分の心を師匠にして、何年修行しても何も変わりません。「あいつ、長年教団にいても何も変わらないな」という人は、自分の心を師匠としているのです。自分の心とは、愚かであり、闘争本能があり、くだらない心です。

 仏様の心は、広大無辺です。永遠の生命を説かれているのです。「自分の心は小さくて、ダメな私です。仏様、よろしくお願いします」と懺悔滅罪して、反省していくのです。これが仏道修行への第一歩です。

 信心とは、そのようなものです。自分を反省するのです。仏教というものは、頭で考えるものではありません。観じることなのです。頭で考えても、何も出てきません。

 アインシュタインの相対性原理、ニコラ・テスラの自然エネルギーは、どこから出てきたのでしょうか? 自分の脳で考えたのだと思うでしょう。脳から相対性理論がでてくるわけではありません。天才は、ちゃんとその世界が見えているのです。

 ベートーベンは音楽が天から自然に聴こえてきたのです。小説にしても、頭が痛くなるほど考えて、「次に何を書こうか」と思って書いてできた小説は、ロクなものではありません。

 天才は音楽や、ストーリーが天から聴こえてくるのです。優れた芸術家は、みなそうです。画家も自分で考えて絵を描いているわけではありません。本当の芸術家は、天からインスピレーションを得て描いているのです。

 優れた芸術や、文学作品は、頭から生まれたものではありません。才能とは、天から与えられたものです。それから外れていると、「自分の頭で考えて小説を書こう」と思っても、駄作しかできません。

 命というものが心です。命は、自分のものではありません。宇宙の心には、何でも入っているのです。自分の神経を研ぎ澄ませて、天にチューナーを合わせれば、電流が流れるように天からのメッセージを脳が受け取るのです。

 物事ができるとは、そうなのです。これをイデアというのです。建築物は、みんなそうです。「どのような建築物を造ろうか」と考えて、スケッチをします。その元は頭で考えたことではなく、ひらめいたのです。

 それは、脳で考えたことではありません。どこかに永遠の建築物があるのです。完璧な三角形や、完璧な円などが、天界にはあるのです。自分の頭で考えて、回答をひねり出しているのはゴミです。

 いつも自分のアンテナを研ぎ澄ませていると、完璧な世界から自分の欲しいものをキャッチすることができるのです。そうなりたいでしょう。やってみればよいのです。境智冥合すれば、何でも出てくるのです。

 完璧な三角形、素晴らしい音楽は、全て向こう側の世界にあるのです。人間は、それを引っ張り出すだけです。人間の頭から微分積分学がでてくるのでしょうか? 出てくるわけがありません。そんなものは、宇宙にはありません。

 考えてみると、宇宙の側には、何もありません。でも、それはゼロと同じです。自然界にはゼロはありませんが、ゼロがないと数学は成り立ちません。何もないけれども、ゼロは頭の中では存在するのです。

 すべてが詰まっている空間があるのです。今の言葉で言うと、素粒子です。素粒子の世界には、何でもあります。素粒子の世界から、アイデアも浮かんでくるのです。よい芸術も、完璧な三角形も、何でもあるのです。

 自分の頭をこねくり回すから、ロクなものがうまれてこないのです。明鏡止水と言って、心を落ち着かせて鏡のような心にして、宇宙に耳を澄ませると、様々なアイデアが湧いてくるのです。

 智恵も湧いてくるのです。自分の浅知恵に従わないで、宇宙大の心を自分の心にしていくと、永遠の生命は体得できるのです。

 創価学会員のように、ただ「なんぎょうほうれんげっきょう~」と、お題目だけを唱えていればよいなどという考えではいけません。それは、道理からも外れています。

 「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(四条金吾殿御返事)です。仏法とは、道理です。「道理とは、何か?」ということを追求したのが仏教です。

 そんなことは、入り口であり、仏道修行者は、「どのように修行をしていけばよいのか?」ということを教わっていかなければいけません。すると何が違うのでしょうか? 法華経の信心をしている人は、道理を明らかにしているので、普通の人とは違ってくるのです。

 貴方は自分の心を師として歩んできたのですから、何も変わっていません。「私は自分の心を師としてはいません。もっと大きな宇宙大の心を師としています」と言えたら、くだらない欲望の世界からは脱しているのです。宇宙大の世界とは、素粒子の世界です。素粒子の世界を、貴方の心にしていくのです。

 普通、医者で治らない病気は治りません。素粒子の世界を開かないと病気は治りません。「あそこが痛い」「ここが痛い」と言っても、原因はわかりません。人間の心臓、肺、血液などは、自分でつくったものではありません。

 自分が生まれるときに、「心臓はこのようにして、肺はこのくらいの大きさで生まれる」などと言って、自分をつくったわけではありません。だから、病気は治りません。

 ところが、量子の世界に目を向けたときに、「すべてが自分ではない」ということが、わかってきます。この世界は、素粒子の世界です。素粒子の世界があり、遺伝子もその中に入っているのです。

胎児の形になると、心臓が生まれて、脳が生まれてくるのです。体のどこかが悪くなって、「病気を治したい」と思ったら、医者が治してくれるのであれば、それでもよいのです。ところが、治らない問題もあるのです。それは、素粒子の世界に働きかけなければ治りません。

 「祈りをかける」ということは、素粒子に祈りをかけるのです。素粒子は、様々な原料をつくり、人間をつくっているのです。素粒子にコンタクトができれば、病気も治ってしまうのです。細胞にコンタクトしても治りません。

 そのように信仰は、どこまででも深くなっていくのです。だから、いくつになっても人生は退屈しません。自分はまだ道半ばです。完璧な人間ではありません。途中だから、いつも楽しいのです。そのような人間になっていこうではありませんか。

 「あの人を見たら、元気がなくなってしまうのだ」と言われたら、どうしようもありません。常に輝いている人は、素粒子の世界に働きかけている人です。

 

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

※今年から、『中杉 弘の徒然日記』は、月曜日から、金曜日まで掲載します。

土曜日(0:00)は、正理会チャンネルをご覧ください。

 

■新番組「中杉弘の毒舌!人生相談」

 

 

第18回、12月16日(土曜日)0:00公開!
是非、ご覧ください!
      ↓

 

 

 

 ■『正理会ちゃんねる』は、土曜日連載中です。

      ↓

 

 

 

■『中杉弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137   

 

 

■『中杉弘の人間の探求』にて、「法華経入門講義」を連載しています!

こちらもご覧ください。

    ↓↓↓

https://ameblo.jp/nakasugi2020