予定調和説について ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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【衝撃の事実】この世界が仮想現実としか思えない理由とは?

 

 

 

 

予定調和説について ②

 

 仏教では、「原因と結果は同時だ」といいます。量子の世界で考えるならば、原因と結果は同時です。

 ということは、「原因もなければ、結果もない」ということです。普通は、原因があって、結果が出るのです。結果が出るまで、時間がずれています。

 しかし、「原因と結果が同時だ」と言ったら、時間がなくなってしまいます。普通は、花が咲いて実がなります。因果には、因果並常、因果異時、因果倶時があります。

 普通は、原因と結果がずれているのですから、因果異時です。因果並常というのが、原因と結果が並びます。原因と結果は同時だというのが因果倶時です。

仏さまは何と言われたのかというと、「この世の中は、因果倶時です」と言われたのです。ここが違います。仏教で一番説きたかったことは、この世は因果倶時です。原因と結果が同時です。

 それを教えられているのが、仏壇に飾る蓮の花です。「どうして、仏壇に蓮の花を飾るのか?」というと、「原因と結果が同時だ」と言っているのです。ということは、これを応用していかなければいけません。

 応用していくと、全ての森羅万象である山、川、動物、人間も、因果倶時です。妙法の世界は目に見えません。そこに木があるでしょう。木は原因の結果です。だから、木があるのです。「木になる」といことと、「木がそこにある」ということは、同時です。

 我々がライオン、豚、馬を見た場合、それらの動物はなりたくてなったのです。豚を創る法などありません。神様が豚を創ったわけではありません。自然界を動いているうちに、自然に豚になったのです。豚は豚になりたかったのです。

 これは、目に見える世界です。目に見える世界には、犬や猫もいます。犬や猫も量子からできているのです。出来上がった犬や猫などの生命体を見ると、お腹がすけばご飯を食べるのです。

 蓮華は咲きたいから、咲いているのです。蓮華は、花と実が同時です。それらをよく見ると、同時です。「木はいつからあるのでしょうか。木は、小さな芽からできています。それが大きくなった木と同じ木なのでしょうか? 葉っぱが2つしかない木と、成長した木は全然違う木に見えますが、同じものなのです。これが、因果倶時です。

 ということは、どこにも我(が)は、ありません。どこにも我(が)がないのに、「これが私ですよ」と思っているのです。「これは私です」と言って、頑張っているのです。「頑張る」とは、「我を張る」という意味です。

 「ミス・ユニバースで優勝したのが、私なのよ。見て、見て!」と言っている女性は、60年も経つと、あっという間にお婆さんです。

 「私は80歳のお婆ちゃんになりました。私は20歳のときは、美人だったのよ」と言うと、それも事実ですが、今は、お婆ちゃんです。20歳のときの自分と、80歳のときの自分は、同じものなのです。

 どれが、本当の貴方なのでしょうか? 「20歳の時の私が本当の自分であって、お婆さんになっている私はウソの自分です」とは、言えないでしょう。ずっと同じものです。すると、どこにも永遠に変わらない我(が)というものは、ないとわかるのです。

 20歳のままで止まっていれば、「20歳の私が自分なのよ」と言えるのです。ところが、時は止まってくれません。どんどんとお婆ちゃんになってしまうのです。どこにも、変わらない自分はありません。

 人間は、変わってなくなっていくものに執着して、苦しむのです。「苦しみというものは、何か?」というと、我(が)に執着することです。「私が、私が、・・・」「俺が、俺が、・・・」と執着するのです。

 「私」とか、「俺」というものは、どこにもありません。無いものに執着をして、「年収800億円のプロ野球選手になった」と、思っているのですが、それだけの話です。何もありません。

 そのように量子力学では教えているのです。量子力学から学ぶことは、「神はサイコロをふる」ということです。「確率として存在するなどということは、私は信じない。神はサイコロをふらない」と言ったのが、アインシュタインです。

 量子力学はどんどん進み、量子が物質の根源だと言われているのです。物質の根源は、誰かがつくったものではありません。種があったわけでもありません。イエス・キリストがつくったものでもありません。アラーの神がつくったものでもありません。

 ただ、昔からそのままあったのです。この世界は変化をしているだけです。変化をとどめることはできません。変化している中で流れるように生まれて、流れるように死んでいくのです。

この世に生を享けたものは、皆そうです。ライオン、犬、猫などの動物も同じです。なんだか知らないけれどもポコッと生まれて、自分らしきものがあり、やがて消えていくのです。自分というものは、どこにもありません。そのように言うとわかるでしょう。

 そのように言うと、空(くう)がわかってきます。お坊さんでも、空(くう)はわかっていません。「何もないのが空(くう)だ」と思っているのです。

 どこにも我(が)はありません。我がないのに「若さよ、永遠に」と思っているのです。そう思っているから、苦しくなるのに決まっています。人気があった加山雄三でも、歳をとれば養老院へ行くのです。

自分は養老院にいて時代が去っているのに、「私は若い頃にとどまりたい。これが本当の自分なのだ」と思っているのです。

 「これが私の我(が)なのだ」と主張しても、そんなものはすぐになくなってしまうのです。プロ野球選手の大谷翔平になって、1015億円稼いでもすぐになくなってしまうのです。そんな喜びは、すぐに消えてなくなってしまうのです。

 「若大将」と言われてテレビで有名だった自分が本当の自分なのか、年を取って養老院に入った加山雄三が本当の自分なのでしょうか? 答えは、みんな自分です。どうして姿が変わっていくのでしょうか? 我とは、不変で変わらないもののことを言うのです。

永遠に変わらない自分は、どこにもありません。これが仏教の入り口論です。空(くう)とは、そのようなことです。

 運命の流れは、自然に流れていくのです。全て自分がつくったものです。創造主は存在しません。あるのは自分の因果だけです。あらゆるものは、自分が過去世につくったものなのです。

 それは、素粒子が物語っています。量子は見ているときにはあって、見ていないときにはありません。光子という物質があります。「これ光子だ」ということはできません。、

いくら、「光子を見つけた」と言っても光子をつかまえることはできません。

「では、光子はないのか?」と思うと、見ているときに光子はあり、見ていないときに光子はありません。そのようなものです。

 この世界の根本は、そのような世界です。現実に我々は、存在しています。しかし、よく考えてみると、存在していません。ということは、この世界は、バーチャルリアリティーの世界です。この世界は、想念の世界です。

 この世界は、全てバーチャルリアリティーの世界です。「生きている」ということも、バーチャルリアリティーです。

 量子は生きているか、死んでいるかわかりません。「ある」と思えばあるのです。「ない」と思えばないものは、物質ではありません。

 そのような世界ですから、宗教家から言うと、この世界は、観念の世界です。まさに、バーチャルリアリティーの世界です。「自分がこのようにある」と思えば、そのような世界がでてくるのです。それも自分でつくっている世界です。どのような問題も自分でつくっているのです。「未来、こうなりたい」と思うと、そのようになるのです。

 物理学の世界では、「未来は、何通りもある」というのです。不思議でしょう。宇宙には、星は無限にあります。ということは、人間の未来を考えてみても無限にあります。

 自分が今、苦しんでいます。「苦しい」と考えていることは、自分が考えていることです。その自分の考え方を変えるのです。それは、「自分を仏へと変える」のです。凡夫に生まれて、仏になることができるのですから、変わることができるのです。

 「お前はできが悪いから、仏陀になどなれないのだよ」と、その人が思っているのです。「未来、私はお金持ちにはなれないのよ」と思っている人は、なれません。「お金持ちになる」という因果は、目に見えない部分からでてきて、前世から蓄積されてきて、お金持ちになるのです。

 豚は豚になり、犬は犬になっているのです。自分は自分になったのです。そのように考えると、病気も一瞬で治るのです。“手かざしの業”も有効であると気が付いてくるのです。

 病気になるときは、一瞬です。「クシュン、風邪をひいたかな」と思うと、風邪をひいているのです。「えい、治ったぞ!」と思うと、これも瞬間です。元気がないな、「えいっ、元気が出るぞ!」と思えば、これも瞬間です。

 瞬間にして未来が変わってしまうのです。無限の宇宙があり、宇宙の果ては、どうなっているのかわかりません。目に見えない世界が、量子の世界です。「この世界にはブラックホールがある」と言うけれども、そんなものが本当にあるか、ないかはわかりません。

 確率論でしか存在しないのですから、わかりやすい言葉でいうと、未来は、ここだけにあるのではありません。横に並んでいるのです。普通は、「明日の自分、明後日の自分が延長線上にある」と思っているのですが、延長線上に未来があるわけではありません。

 今日の自分、明日の自分は、横に並んでいるのです。同時に同じ自分が出発しているのです。横並びですから、貧乏人の自分もいれば、お金持ちになった自分もいるのです。それは、因果の理法だからです。

 それがわかった人は、パッとチャンネルを変えると、違う人生がでてくるのです。病気になった場合、覚えなければいけないことはチャンネルを変えることです。医学では、チャンネルは変わりません。

 瞬時にして自分が変わるのです。これを「因果俱時・不思議の一法之れ有り」(当体義抄)と言うのです。わかりましたか? 幸福な自分は横に並んでいます。不幸な自分も横に並んでいます。「幸福になりたいのだ」と思えば、瞬間にチャンネルを変えることができるのです。

 反対にチャンネルを変えられないと、不幸な自分の未来を選んでしまうのです。常に2つの選択肢があり、どちらの未来を選ぶのかは、自分次第です。それを、「因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)というのです。

仏法の功徳はそこにあるのです。

 

 

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