幕末の剣豪 ③ | 中杉 弘の徒然日記

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【12分で解説!】勝海舟がいなかったら今頃〇〇なことになってた!?

 

 

幕末の剣豪 ③

 

幕末、滅びる幕府側には、剣客がいたのです。それが勝海舟です。僕の考えでは、一番強かったのだと思います。「勝海舟が、剣客だった」などという話は、皆さん知らないでしょう。

 滅びる江戸幕府側の交渉を任された人だから、頭も良かったのです。剣術も達人だったのです。なぜかというと、勝海舟は、刀が抜けないように紐で結わえていたのです。幕末ですから、志士たちは殺気立っています。当然、斬りつけられたら、刀で応戦します。

 受けた刀は、攻撃に回るのです。すると、バンッと自動的に相手を斬ってしまうのです。だから、勝海舟は刀を抜けないように紐で結わえていたのです。そんなことをやっていたのは、勝海舟ただ一人です。

 幕末の殺気立った時代に、刀を紐で結わえて抜けないようにしていたら、斬られてしまいます。本当に刀を持って「勝、覚悟!」と言って、斬りにくるのです。勝海舟の剣術の修行道場は、父親の従兄の男谷信友の道場に通ったのです。

 後に信友の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となったのです。師匠の虎之助の勧めにより禅も学び、兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得しています。

蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学んだ。この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話があります。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであったのです。

勝海舟は、島田虎之助の道場で、剣術の修行をしたのです。勝海舟は、ものすごい修行をしたのです。18歳くらいから始めたのですが、剣術の修行をやる以上は、徹底的にやったのです。生半可の修行では、役に立ちません。

 朝は5時に起きて、朝稽古です。食事が終わると午後からの稽古です。1日中、剣術の修行をしたのです。それで終わりではありません。夜になると、王子権現で座禅を組んだのです。

 座禅を組んで疲れてくると立ち上がって、素振りを何百回、何千回とやったのです。修行仲間が何人か一緒にいたのですが、お腹が減るのと、寒さで、近所のお百姓さんを起こして飯を食わせてもらい、そこで眠ってしまったのです。

 この修行をやり遂げた人は一人しかいません。それを3年間やったのは、勝海舟だけです。師匠に言われた通り、朝まで剣術の修行を続けたのです。朝になると、道場の雑巾がけをして、素振りを何千回です。

 勝海舟は、このような激しい修行を3年間も続けたのです。『氷川清話』の中で、「本当に修行したのは、剣術だけだ。他のものはみんないい加減だよ」と言っています。他のことは、やっつけ仕事ですが、剣術だけは真面目にやったのです。

 勝海舟は、免許皆伝のすごい人です。僕は、勝さんが一番強かったのだと思います。勝海舟を斬りにきた刺客は大勢いたのです。刺客が「西洋かぶれした、勝はお前か?」と言って、勝さんに斬りかかってくるのです。ここからの対応が、他の人とは違うところです。坂本龍馬も勝海舟を斬りにきたのです。「勝、この西洋かぶれめ!」と斬りかかってきたのです。

 勝さんは、自分の家には、20人くらいの女中さんを置いていたのです。美人を選んでいたのです。「勝はいるか!」と刺客が訪ねてくると、美人の女中さんがでてきて、「どちら様でございますか?」と聞くと、あまりにも美人なので殺気も消えてしまったのです。

 次から次へと出てくるのは、みんな女性です。女性に対応させて殺気を消しておいてから、勝さんは会ったのです。その考え方もすごいのです。変な男が用心棒でいたら、すぐに斬り合いになってしまいます。坂本龍馬は、相撲取りを用心棒においていたのです。それでやられてしまったのです。

 「幕末の四大人斬り」と言われた岡田以蔵は、勝海舟の用心棒をしていたのです。岡田以蔵は大男です。勝海舟は小さい人だから弱く見えたのでしょう。勝海舟が襲われたときに、岡田以蔵は一人を斬ってしまうのです。あとの2人は逃げたのです。

 勝海舟は、「岡田君、人を斬ってはいかんぞ」と言うと、岡田以蔵は「私が斬らなかったら、先生はやられていましたよ」と言ったのです。さすがの勝海舟も、それには一言も言い返せなかったのです。

 勝海舟には、自信があったのです。刺客が来る場合、まず一太刀をあびせてきます。「それを避けられる」という自信があったのです。一発目を外しておいて、「待て、俺の話を聞け。何のために君は俺を斬ろうとしているのだ?」とやったのです。

 勝海舟と1時間も話すと、相手は「恐れ入りました」となるのです。それまでは斬ってくるのです。それを避ける実力が勝海舟にはあったのです。それで、岡田以蔵も、坂本龍馬も弟子になったのです。

 しかし、勝海舟の全身には30カ所以上の傷があったのです。それは、かすり傷です。致命傷はあびていません。勝海舟は、明治維新後も生き続けて75歳まで長生きした人です。長生きした秘訣は、人を斬っていないからです。

 新選組も勝海舟の配下に入った時期があったのです。勝海舟から見たら、子ども扱いです。「なんだ、剣術屋さんか」ということです。剣術屋さんは、頭がないから簡単です。徳川慶喜のために邪魔だと思ったから、「甲州へ行け」と言ったのです。

 新選組に「甲州城を取れ、そうしたら近藤さんを100万石の大名にする」と言ったのです。近藤さんは、「100万石!?」と乗ってしまったのです。それで新選組は、甲州を目指して、甲州街道を歩いて行く途中、石田村や、自分たちの故郷の村を通ったのです。

 村に着くと、「最高の出世頭だ。近藤さんが大名になった!」と大騒ぎをしたのです。近藤達が通るたびに村々で大歓迎を受けたのです。そのたびに、どんちゃん騒ぎです。

 それをやっていたから、甲州城への到着が遅れてしまったのです。甲州城には、官軍の板垣退助が先に到着していたのです。城に入ってしまったほうが強いのです。新選組は宴会をやっていたおかげで甲府に到着するのが遅れてしまったのです。

 官軍が甲府城に入っているので、新選組は、甲府城に入れなくなってしまったのです。それで負け戦になって逃げたのです。それも勝海舟の知恵なのです。新選組が江戸にいると官軍の攻撃を受けます。「近藤さん、甲府城へ行ってくれるか? 大名待遇でどうだ?」と言ったのです。

 そこで近藤さんは「わかりました」と言って甲府城へ向かったのです。ところが、時すでに遅しです。官軍の板垣退助が城の中に入っていたので、近藤たちは、負け戦になってしまったのです。そのような話です。

勝海舟は、知恵もあり、学問もできて、剣術もできたのです。しかも、胆力もあったのです。幕末には剣豪が大勢いましたが、一番強かったのは、やはり勝海舟だったのだと思います。

勝さんは、どんな場面でも逃げることはなかったのです。桂小五郎は、「逃げの小五郎」と言われて、一度も斬り合いをしなかった人です。勝さんは、一度も逃げたことはありません。それでいて刀を抜かなかった人です。

 中村半次郎を傍において可愛がった西郷隆盛の人徳もわかります。必ず暴力装置を置いていたのです。ドーベルマンを傍に置いておくようなものです。

 幕末の剣豪の中で、寿命を全うしたのは、斎藤一と勝海舟でした。以上!

 

 

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