一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ) 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう) | 中杉 弘の徒然日記

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※【ウクライナ】学校で“核攻撃を想定”避難訓練 「ロシアには絶対に核兵器を使ってほしくない」

 

一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ) 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)

 

 時々、僕はこのようなことを考えます。「一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ) 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)です。これは、法華経講義の中に書かれています。

 これは、どのような意味なのでしょうか? 「一心欲見仏 不自惜身命」とは、「一心に仏を見奉らんと欲して、身命を惜しまず」という意味です。

 真剣に仏道修行をする人には、そこに仏様のお姿がでてきます。「私は、ご利益信仰をしています」と言う人は、仏様とは何だかわかりません。法華経の一文字、一文字は、黄金の仏身です。仏を見奉らんと欲するならば、仏は貴方の前に出てきます。

 仏とは何でしょうか? 昔の人も、それがよくわからなかったのです。大黒様をつくって、「大黒様が仏だ」と思ったり、中国へ行くと摩崖仏と言って、壁に100メートルくらいの仏像が彫ってあります。船が通ると摩崖仏が見えるのです。人々は、「これが仏だ」と思って拝んだのです。

 仏とは何でしょうか? それが全くわかりません。この宇宙を見てごらんなさい。この宇宙は、人間が創った宇宙ではありません。地球人以外に宇宙人がいたとしても、「宇宙全体は、どのようになっているのか? どのようにして、生命は生まれるのか? 生命の根本は、一体なんでしょうか?」そんなことも、人間には全くわかりません。

 葉っぱ一枚、虫一匹、命がないと動きません。命がなくなると、虫も死んでしまいます。葉っぱも枯れてしまいます。命とは、一体なんでしょうか?

 「人が死ぬと、どうなるのか?」ということを、研究した人がいるのです。生きている人間の重さを量り、「ご臨終です」と言われて、死体の重さを量ります。「何かがなくなったのではないか?」と思って、体重を量った人がいるのです。

 すると、「体重が5グラム減った」という結果が出たのです。すると、「魂の重さは5グラムだ」と思い込んだのです。人間が死ぬと5グラム減るのです。「その5グラムが生命の源ではないのか?」と考えたのです。

 5グラム量っても誤差もありますから、正確な数値ではありません。水が一滴こぼれても5グラムくらいになってしまいます。

 そのようにして、「命とは何か?」ということを探求したのです。「命」とは、何でしょうか? 我々が死ぬと、体はピクリとも動かなくなってしまいます。今まで動いていたのは、命があったからです。

 死んでしまうと命がなくなってしまうのです。命がなくなると、自分の体はどうなってしまうのでしょうか? 私たちを生かしてくれているもの、或いは殺すものの正体は、何でしょうか? 

 「命」とは、我々の目には見えない、わからないものがあるのに違いありません。そのことを、「命」と言うのです。命とは、英語の[life]ではありません。命とは、そのようなものではありません。なんだかわかりません。

 人間は、命があると生きているのです。死んでしまうと、命がどこかへ行ってしまうのです。命とは、不思議です。命とは、一体、どのようなものなのでしょうか?

 僧侶が求めたものは、「命」です。命を探求したのです。我々を創っているものは、一体なんでしょうか? 考えようとしても、命は小さなノミから、大きな恐竜までいます。深海の中にも、8万種類くらいの魚がいます。みんな命です。

 家の外を散歩すると、道にはアリがいます。小さなアリも動いています。アリにも命があるのです。コロナウイルスも命です。命とは、何でしょうか?

 ウイルスがもっている命と、動物がもっている命と、植物がもっている命と、魚のもっている命と、人間のもっている命は、同じものなのでしょうか? これが仏教の始めです。それをずっと考えていったのです。

 「仏の姿を見たい」とは、「命の正体を知りたい」ということです。目に見えない命が見たいのです。それで、仏道修行をしていったのです。それを「一心欲見仏 不自惜身命」と言います。一心に仏を見奉らんと欲して、自らの命も惜しまず修行するのです。

 命を惜しんではいけません。「何としても偉大な命の正体を知りたい」と思って修行していくのです。これが本当の仏道修行です。

 そのように思って、どの経典を見ても、仏には会えなかったのです。念仏などやっていたら命は絶対にわかりません。極楽浄土へ連れていってくれるのが阿弥陀仏です。阿弥陀仏が命なのでしょうか? それは、違います。般若心経が命を説いたのでしょうか? 全然、説いていません。

その「命」というものに真っ向から立ち向かって、「正体を明らかにする」と探求していくのが、法華経の行者です。その迫力がないと、命の正体がわかるわけがありません。

 「目に見えない命そのもの、大宇宙の命というものは、どのようなものなのか知りたい。そして見たい」と探求していくことが、「一心欲見仏 不自惜身命」です。

 「自らの命を惜しまず、一心に仏を見たい」と探求する心がないと、仏は見えてきません。「私が功徳を受けたい」などというのは、ご利益信心です。本物の信仰とは、ご利益を求めたものではありません。

 功徳を受けたいとは、ご利益信心です。その命の正体が本当にわかれば、宇宙大に心が広がってしまうのです。自分の命もわからず生きている人は、豚と同じです。それでは、命は見えてきません。

 見えない命をわかろうとして、頑張ることを仏道修行というのです。創価学会で、「公明党に一票入れると、功徳があるのよ~」などと言っている学会員に功徳などあるわけがありません。バカなことを言っているものではありません!

 毎日、仏道修行をしていると、わかってくるのです。命というものは、表現できません。『無量義経徳行品第一』には、34の非が書いてあります。

34の非

「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず縁に非ず自他に非ず方に非ず円に非ず短長に非ず 出に非ず没に非ず生滅に非ず 造に非ず起に非ず為作に非ず座にあらず臥に非ず行住に非ず 動に非ず転に非ず閑静に非ず 動に非ずで転に非ず、閑静に非ずでなく、進に非ず退に非ず安危に非ず 進に非ず、退に非ず安危に非ず是に非ず非に非ず得失に非ず "彼に非ず此に非ず去来に非ず 青に非ず黄に非ず赤白に非ず 紅に非ず紫種種の色に非ず」

 

仏というものは、目に見えません。赤でもなければ、青でもありません。紫でもなければ、黄色でもありません。34の非では、全て否定しているのです。命とは、「有にも非ず、無にも非ず」です。有るものでもなければ、無いものでもありません。そのように書いてあります。

 法華経は、「命とは、このようなものだ!」ということを説かれたのです。だから、自分で勉強しないと命はでてきません。その命がでてくると、不老不死になってしまうのです。そして、常に仏と一緒です。

そのような気迫をもって、仏道修行していくのです。どのように仏道修行をしていくのいかというと、「一心欲見仏 不自惜身命」です。

 わからない「命」というものを、「わかりたい!」と思って、探求していくのです。「仏様、命というものをわからせてください!」と仏道修行をしていくのです。それが、「一心欲見仏 不自惜身命」です。

 このようなことを中心に考えて仏道修行をしていくと、普通の人とはまるで違った人間になってくるのです。小さな自分の欲望をもって「こんなことをやりたい」「あんなことをやりたい」と思っても、ゴミのようなものです。

 まして、プーチンは、ウクライナを核兵器で脅して、侵略しているのです。「人の領土が欲しい」プーチンは、ゴミ、そのものです。

 ゴミの源を訪ねて、「命とは何か?」ということを探求していく人は、ゴミから脱却できるのです。ゴミから脱却できない人は、定年退職して、ゴミのままで人生は終わりです。

法華経の信仰をしている人は、いくつにっなっても、「一心欲見仏 不自惜身命」です。以上!

 

 

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