天もすて給え、諸難にもあえ ① | 中杉 弘の徒然日記

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【寮歌・歌詞付き】「嗚呼玉杯に」第一高等学校

 

 

天もすて給え、諸難にもあえ ①

 

 この道を目指して、「船出せしより十二年」という歌が「嗚呼玉杯に」第一高等学校寮歌にありました。

僕は道を極めて12年くらいやってきましたが、道ははるかに遠いのです。

 有名なところでは、藤村操の「巌頭之感」という遺書があります。

巖頭之感

悠々たる哉天壤(てんじょう)、遼々(りょうりょう)たる哉(かな)古今、五尺の小軀(しょうく)を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價(あたい)するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」

 藤村 操(明治36年5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生でした。華厳の滝で、投身自殺をして、自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって、当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げたのです。

藤村操は、崖の上に立って、無常を感じたのです。「初めて知るのです。私はこの滝に飛び込んで死ぬのです。その時に、私の心は非常に正常である。そして、崖から飛び降りるのを待っているのだ。飛び降りた時に、私はすべてを知るであろう。価値を認めることはない」、このような内容です。

道を求めて進むもの、それには必ず困難が付きまとうのです。その最高の困難とは何でしょうか? 

私もこの道を目指して50年、一生懸命やってきたけれども、なかなかご理解を受けることはありません。ご理解してくれる方は、少ないのです。そこで初めて、日蓮大聖人様の『開目抄』のお言葉に触れます。

 「詮ずるところは天もすて給え、諸難にもあえ身命を期とせん」(開目抄下)

 僕の場合は、50年以上の仏道修行をしてきているので、「初めてこの言葉の意味を読みきった」ということを、最近、自覚しています。

 御書というものは、自分が体験して読み切らなければ、その経典を理解したことにはなりません。

 僕は、「この御書を読みきった」という自覚があるのです。50年くらい戦ってきているのです。衆生をリードするということは、大変なことです。

 方便には、いろいろとあります。「この御本尊を拝めば、成仏するのだ」というと、簡単に見えますが、その通りやっても、成仏できません。

 成仏させるということは、非常に大変なことです。人々を成仏させて、自分も成仏していくことは、大変に珍しいことです。

 「すべての人々を救い、この地上を平和にしたい、仏国土にしたい」と思っても、民衆は法など求めていません。正しい教えなど求めていません。すると、「民衆は、法を求めていないのだ」とわかってくるのです。

 「仏教を説きなさい。するとどうなるのか?」というと、民衆は「はい、わかりました。有難いお釈迦様の教えですね」などと言って、信じてはくれません。僕は、「この御書を初めて読んでいるのだな」と思うのです。

 僕は、50年以上やっているのです。始めて「天もすて給え、諸難にもあえ」という境涯がわかるのです。誰も助けてくれません。その時にどうするのでしょうか?

 懸けるものは、自分の身命だけです。これは、信じられるものですから、信じて間違いはありません。経典には、「地涌の菩薩が現れて、末法には法を広めてくれる」と書いてあるけれども、現実はちょっと違います。

 まじめに人々を救済していくということは、大事業中の大事業です。簡単に「南無妙法蓮華経とは、こうですよ」と言われて、「わかりました。有難うございます」というものではありません。

 「信じる」ということから教えなければいけません。阿弥陀仏像や大日如来像などを信じることが信仰ではありません。奈良の東大寺に連れていかれて、「素晴らしい毘盧遮那仏でしょう。この仏像を信じることが信仰なんですよ」と言われるのですが、そうではありません。

 古来の人は、そのように考えたのですが、そうではありません。その前には、信仰を求めても、ガンジス川のような大きな川で隔てられているのです。「川を渡って、こちらの岸に来なさい」と言われて、民衆は「助けてください」と言って、泳いでくると、川に流されてしまうのです。岸にはたどり着けません。

 そのように信仰の本筋は、大変難しいものです。助けるものは、自分しかいません。それを「天もすて給え、諸難にもあえ」と言うのです。誰も助けてくれません。

 「身命を期とせん」です。まだ、貴方の命があります。その命の尽くすかぎり、法を説いていくのです。「そうですか、わかりました」と言って、やればやるほど、民衆と乖離していくのです。

 民衆は、簡単には認めません。なぜでしょうか? 答え、人間は「自分が一番偉い」と思っているのです。人間は簡単に優れた人を認めません。なにしろ、「私が一番偉いのだ」と思っているのです。

 「悟った」という立場にいる人間、そんなものは信じません。「信じなさい」と言っても信じません。人間は、なかなか人を信じないので、御本尊を造り、「これを信じることが信仰です」と言ったほうがわかりやすいのです。何故ならば、御本尊は自分だからです。

「信じなさい」とは、何を信じるのでしょうか? それは、「お釈迦様の教えを信じなさい」ということです。「御本尊を信じなさい」ということではありません。

 「この御本尊を信じなさい」という信仰は、簡単です。信者「わかりました、これを信じるのですね」、仏教指導者から「お釈迦様の教えを信じなさい」と言われても、お釈迦様の教えは、8万4千巻もあります。何を信じてよいのかわかりません。

 それを考えて、打ちこんでいくことが仏道修行の原点です。なかなか民衆は信じません。「仏教を信じなさい」と言われると「私は自分のことを信じているのよ。自分以外のものは、信じないのよ!」と思っているのですから、仏教が入るわけがありません。末法の衆生は、自分を信じて、「自分が一番偉い」と思っているのです。

だから、池田大作のような邪師を魅力的に思い、創価学会が流行ってしまうのです。池田大作は、「お釈迦様の仏教を学べ」とは言いません。「我をパンパンに張って、自分の祈りをかなえるのだ!」と学会員に言うのですから、大衆は喜んで受け入れるのです。それは、「自分が一番偉い」と思っているから、そのような言葉を受け入れるのです。(②に続く)

 

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