信仰とは何か? 創価学会に問う ① | 中杉 弘の徒然日記

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※高利貸の池田大作

信仰とは何か? 創価学会に問う ①

 

 何でもそうですが、「原点を突き詰める」というのが、僕の考え方です。原点をいい加減にして進んだものは、行き詰ってしまうのです。

 信仰も同じことです。一番大事なことは、「貴方は、何を信じているのでしょうか?」ということです。創価学会員に「貴方は何を信じているのでしょうか?」と問うと、「私は日蓮大聖人様の仏法を信じています。誰が何と言っても、信仰は止めないから」という答えが返ってきます。

 その段階で断絶が生まれるのです。誰が何を信じようと自由だけれども、貴方は何を信じているのでしょうか? 学会員「私は日蓮大聖人様の仏法を信じています」と言うのです。

 次に「日蓮大聖人様の仏法とは、何ですか?」と学会員に質問すると、「え~と、それは、・・・」とわからなくなってしまうのです。

 ということは、学会員は、何もわからないまま信仰をしているのです。貴方は何を信じていますか? 「私は日蓮大聖人様を信仰しているのです」そこまでは、創価学会でも答えられるのです。

 だから、「死ぬまで学会を辞めないのだ」と言うのです。創価学会の幹部にどんなにだまされようと、何を言われようと信仰は止めないのです。学会員は、自分の信仰を一度でも疑ったことはないのでしょうか? 学会員は、何を信じているのでしょうか? 信仰というものには、実体はありません。

 そのような問いかけすらも、学会の連中はやっていません。何を信じているのでしょうか? 戸田城聖先生の考えは、明確だったのです。それは、「御本尊を信じる」ということです。

 戸田先生は、御本尊のことを「幸福製造機」と言われていたのです。「この幸福製造機を信じるならば、貴方は必ず幸せになる。この幸福製造機を信じるならば、貴方の病気は治ります。貴方の貧乏も治ります。大石寺発行の御本尊が幸せになる源泉なのだ」と言われたのです。創価学会は、大石寺の御本尊を信じる宗教団体だったのです。わかりやすいでしょう。

 では、なぜ大石寺と喧嘩をしたのでしょうか? 本山だけが幸福製造機を発行できるという前提条件があるのです。本山だけが発行できる幸福製造機を頂いて、創価学会員は、拝んでいたのです。あの偉大な池田大作先生(?)は、本山と喧嘩をしてしまったのです。喧嘩別れをした後は、幸福製造機を創価学会が製造しているのです。

 最初は、日蓮正宗大石寺が唯一、御本尊を発行できたのです。根本は、戒壇の御本尊です。それは、大石寺にしかありません。学会員は、納得していたので、船に乗り、或は電車に乗り、富士大石寺まで行って、御本尊のお目通りを願ったのです。

 それなのに、どうして池田大作は本山と喧嘩をしてしまったのでしょうか? 創価学会は、大石寺と喧嘩をした途端に、宗教の原点を失ってしまったのです。今でも「創価学会は、日蓮正宗大石寺を信仰している」と言えば、創価学会の存在は素直に認められたのです。

 創価学会は、大石寺の持っているお曼荼羅を信仰しているのですから、「大石寺を信仰している」ということになるのです。学会員は、大石寺の教学を信じているわけではありません。

 戸田先生は、数学の先生ですから、筋の通らないことはやりません。仏教という原理をつかんだのです。「仏教の原理で人々を救いたい。そのためには、難しいことを言ってもわからないから、御本尊を拝ませればよいのだ」と思っていたのです。

 御本尊は、幸福製造機ですから、民衆に拝む対象を与えたのです。教学は後回しでよいのです。貴方の病気を治す、貧乏を直す、悩みを解決する、それが幸福製造機である御本尊です。

 戸田先生は、「この御本尊は全ての悩みを解決するのだ」と言われたのです。学会員は、「では、御本尊をいただきましょう」と言って、御本尊を信受したのです。それが、創価学会の原点です。池田大作は、大石寺と喧嘩別れして、自分で本尊をつくったのです。

 日蓮大聖人様は、「皆本尊に迷えり」と言われています。本尊に迷ってはいけません。韓国創価学会では、西を向いてお釈迦様を拝んでいるのです。

 創価学会が本尊をなくしたので、大石寺には帰ることはできません。信じる対象がなくなってしまったのですから、池田大作の屁理屈を信じるしかありません。「貴方は何を信じているのですか?」と学会員に質問すると、一番困るのです。

創価学会員は、「日蓮大聖人様の仏教を信じています」と言うのです。「本当に日蓮大聖人様の仏教を信じているのでしょうか? 貴方は、総別の二義を知っていますか?」と質問すると、「えっ、何のことですか? そんなことは知りませんよ」と言うのです。

 日蓮大聖人様の教学は、総別の二義を知ることです。「皆本尊に迷えり」と言われているのです。「本尊とは、何であるのか?」ということです。本尊の立て方により、信仰は、全て変わってしまうのです。

 正理会は、大石寺の本尊など信じていません。大石寺の本尊を信仰させようと、信者は頑張っているのですが、信仰とは、そのようなものではありません。正理会は、妙法を信じているのです。

 明確です。「妙法とは何か?」というと、妙法は目に見えるものではありません。目に見えるものがあったら、信仰などいりません。御本尊とは、目に見えないものです。目に見えないものを信じるから功徳があるのです。

 目に見える物を信じたら、その物の奴隷になってしまうのです。「あの御本尊は絶対だから、命を懸けて守る」となってしまうと、本尊の奴隷になってしまうのです。「妙法を信じています」と言えば、誰の奴隷でもありません。

 何故かというと、妙法がわかるようになるためには、修行が必要だからです。知らない人に「妙法を信じなさい」と言ってもわかりません。目に見えない妙法がわかっていくことが、信仰です。

 目に見える物を信じることが、信仰ではありません。それは、仏法ではなくて、「物法」です。

 僕が石田次男先生から教わったことがあります。それは、「仏教は智法だ」ということです。智法とは、何でしょうか? 智法とは、知らないと出てこない法のことです。法には、「有る法」と、知らなければ出てこない法があります。

 妙法とは、有る法ではありません。智る法です。これは、ちょうど、ゼロと同じです。数学では、ゼロをよく使います。では、ゼロとはどのようなものなのでしょうか? ゼロはこの世にあるのでしょうか?

 ゼロはこの世には、ありません。宇宙を見渡してみても、ゼロは何処にもありません。もっと言うと、1,2,3も宇宙にはありません。1は何処かにあるのでしょうか? 2もありません。ということは、数学というものに、実体はありません。

 数学は、智る法です。「ゼロである」と認識した人のみが使える知る法=智法です。有る法ではありません。大宇宙を望遠鏡でみても、小さな物質を顕微鏡で見ても、「あそこにゼロがあった」などということはありません。

 ゼロ、1,2、3という数字は、人間が決めることです。だから、智る法です。智る法というのは、知らないと出てこない法です。

 これが数学の面白さです。どんな複雑な数式が出てきても、自然界に有る法ではありません。数学を勉強すると、智法が優れてくるのです。人が知らないものが見えてくるのです。

 数式は、人がつくったものです。仏法も同じで、智る法です。有る法ではありません。何処を探してもお釈迦様はいません。お釈迦様に似せて大仏を造っても、お釈迦様ではありません。(②に続く)

 

 

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