歴史学者の誤り(日本史古代考)② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

僕の書いた成吉思汗=源義経だったこれだけの理由は、なかなか面白いと思います。興味があれば是非、お読みください。

 

 

 徐福は始皇帝の命令で日本征服に来たのです。それが徐福伝説です。今から、2200年前に日本列島に徐福が来たのです。それで日本に王朝を建てたのです。これが神武天皇です。

 だから、日本にはユダヤ人の面影が随所に残っています。これは当然のことです。徐福は中国人ではありません。ユダヤ人のジョセフです。始皇帝も中国人ではありません。ユダヤ人です。

 徐福と漢字で書くから、中国人だと間違われるのですが、徐福は「ジョセフ」です。そのユダヤ人の一団が日本列島を征服したのです。何故、征服したのかというと、徐福は日本列島に2回来たのです。

 1回目は始皇帝に「蓬莱山へ行って不老不死の薬を探してこい」と言われたのです。家来を連れて日本にやってきたのです。どうして日本全国に徐福伝説があるのでしょうか? 「宮崎にも来ました」「東北にも来ました」という徐福伝説があちこちに残っているのです。当時、地図などありませんから、徐福は日本列島を偵察に来たのです。

 九州には隼人、土蜘蛛、熊襲という蛮族が住んでいます。日本地図をつくるようなものです。どうして、調べたのでしょうか? それは日本列島を征服するためです。調査団が来てから、征服するための資料がつくられるのです。

 測量が終わって、日本列島が頭の中に入った、徐福(ジョセフ)は、始皇帝に報告したのです。「不老不死の薬が見つかりませんでした」などと始皇帝に報告したら、首を斬られてしまいます。多くの家来をつけて、「蓬莱山にいって不老不死の薬を探してきます」などと、大きな口をたたいて、結局見つからなかったのか。徐福の首を斬れ!」と言われてしまいます。

 普通ならば、次の人間に「お前、行け!」と言うでしょう。始皇帝は、それを言わなかったのです。徐福は始皇帝に報告して、第二の遠征の軍団を任されたのです。一回目の調査は全て終わっているのです。

 秦の始皇帝は土木技術の名人です。まず、度量衡を統一したのです。シナは広いから、東にいるシナ人と西にいるシナ人は何千キロも離れていますから、言葉も通じません。だから、漢字が流行ったとも言えます。「家」という字を書くと発音が違います。「ヤー」、或は「イェー」というのかもしれません。「ヤー」という発音だけではわかりません。それが「家」という漢字を書くと、発音は違っても「家」だとわかるのです。漢字が広がったのはそのような理由です。

 それが日本に入ってきたのです。日本には漢字が入る前には様々な言語があったのです。神代文字もあったのですが、青森県の人間と鹿児島県の人間は言葉が通じません。日本を統一した以上は、日本全国に通用する言葉をつくらなければいけません。

 徐福が始皇帝に倣って言語を統一したのが日本語の原型です。日本語の原型は人工的な言葉です。それがあるから、北海道の人間と九州の人間の話が通じるのです。それからさらに時代が経って、江戸時代になると、各藩の方言が盛んになったので、言葉が通じません。

しかし、武士だけは共通の言葉が通用したのです。武士は将軍の前にお目見えしたのです。何処の大名でも参勤交代で将軍に拝謁したのです。だから、言葉が通じないと困るのです。武士は標準語が通じたのです。

 最初の日本語の原型をつくったのは徐福(ジョセフ)だという僕の仮説ですが、これも信憑性を帯びてきたのです。言葉を統一したら、今度は度量衡です。北にいくと、10センチで量っていて、奈良に行くと15センチで量っていたら、商売になりません。南で量っても、北で量っても、同じ秤にしたのです。それを度量衡の統一というのです。始皇帝が秦で度量衡の統一をしたので、徐福はそれを知っていたのです。

 徐福(ジョセフ)は、日本列島も度量衡の統一を行い、標準語をつくったのに違いありません。この仮説は見事に当たってくるのです。古代史は面白いのです。僕の書いた『日本建国の謎に迫る』を読んでくれた人は、「凄い名著だ」と言ってくれています。その通りです。皆さんもお読みになると、「初代神武天皇がどのように日本列島を統一したのか?」ということがわかります。これは、僕の直感で書いているので、面白いと思います。

 僕のものの考え方は、Aという事実と、Bという事実があり、つながらないことを考えるのです。「どうしてこれはつながらないのだろうか?」と考えるのです。徐福の来た年代と、皇紀2800年の年代とつながりません。

 だから、みんな苦労するのです。それを「どのようにしたらつながるのだろうか?」と考えていくと、つながるのです。それが数学でいうところの解答です。応用問題の解答はそのように考えて答えを出すのです。「どのようにしてつなげるのだろうか? これをもってきたら、つながるな」と考えるのです。

 ジンギスカンについてもそうです。「ジンギスカンは源義経だった」と言っても、つながりません。源義経は、源氏の英雄です。鵯越にしても、八艘飛びもそうです。全て名人の発想です。どのような発想かというと、今までの水軍の戦争では、水夫は殺しません。船の漕ぎ手を水夫(かこ)といいます。「水夫(かこ)は殺さない」という暗黙の了解があったのですが、義経は水夫(かこ)を殺してしまったのです。

 義経は、今までやらなかったことをやったのです。弓を射て水夫(かこ)を殺せば、船は漂流するのです。そこに義経は八艘飛びで乗り込んだので平家に勝ったのです。義経は軍事の天才です。鵯越など、今でも他の人は降りられません。鵯越を馬でやってのけたのです。それも天才的な発想です。

 その天才的な軍事の才能を持つ義経に対して、藤原氏にかくまわれている時に兄貴の頼朝が「鎌倉に出て来い」と言ってきたのです。「これはやられるな」とわかるでしょう。義経は軍事の天才です。奥州平泉の藤原氏にかくまってもらっていたのですが、兄の頼朝は「出て来い」と4年に渡って言ってきたのです。

 「どうしても俺を殺したいのだな」と義経にはわかります。義経が鎌倉に出て来ないので、天皇にお願いして命令書を出したのです。それでも出てきません。「必ず殺される」と思ったら、逃げることを考えるでしょう。

 僕だって逃げます。北海道でも、何処にでも行けるのですから、義経は逃げたのです。そこに頼朝の軍勢が攻めてきたのです。その時には、すでに義経はいないのです。何処に行ったのかというと、黒竜江省です。

 だから、「北海道に逃げた」という痕跡をわざわざつくったのです。「これは弁慶が書いた書だ」というものをわざわざ置いていったのです。それをたどると、義経の逃亡ルートが辿れるようになっているのです。

 「義経は西側のルートで北海道に逃げたのだな」ということになっているのです。実際の義経は黒竜江省に逃げたのです。藤原家の親戚には、十三湊の安東水軍がいたのです。200艘の船を持ち、全世界を相手に貿易をしていたのです。

 軍事の天才である義経が家来を数百人連れていけば、草原の民であるモンゴル人などイチコロです。アッという間に束ねて世界を制覇したのは、源義経です。しかも不思議なことがあるのです。ジンギスカンの紋章は笹竜胆です。笹竜胆は源氏の家紋マークです。ジンギスカンの旗は、九本の白旗です。

 これは源氏の白旗と同じです。源氏は白旗、平家は赤旗です。九本の白旗は、「九郎判官義経」の「九郎」から義経の旗は九本の白旗がシンボルマークと決まっているのです。紋所は笹竜胆です。誰もジンギスカンを見たことがありません。ジンギスカンは誰にも会いません。

 死ぬ時に「我、故山に帰りたし」と言ったのです。故郷とは、日本です。日本に帰りたかったのです。そのように言ったのは当然のことです。鞍馬寺では、ジンギスカンの命日には法要をやっているのです。

 これを見ても、ジンギスカンと、源義経はピタリと合うのです。つながらないところをつなげていくと、「これは事実だな」とわかるのです。蒙古の馬賊が数十人単位で集まって、世界を征服するようなことはあり得ません。

 それが伝わっているのです。蒙古が引き上げたあとに、女真族がシナを統一して清帝国を造ったのです。清帝国も清和源氏の名前を使っているのです。「我々は源氏の子孫だ。助けてくれ」と日本に言ってきたのです。

 わからないように、もうすでに日本は世界を制覇していたのです。このようなこともわかってくるのです。僕の書いた成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』は、なかなか面白いと思います。興味があれば是非、お読みください。

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

 

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

 

 

 ■『中杉弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

(ライブドアがフリーズすることがあるので、『中杉弘の人間の探求』で「法華経入門講義」を第一回から掲載しています。そちらをご覧ください。)

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137   

 

■『中杉弘の人間の探求』にて、「法華経入門講義」を連載しています!

こちらもご覧ください。

    ↓↓↓

https://ameblo.jp/nakasugi2020