薩摩藩士族 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

眞子さま、絢子さんからベビーカーを“奪い取る” 「あまりの形相に戦慄した」と関係者

 

 

 私の知り合いの会社に、「薩摩藩士族」だったという人がいます。あまりパッとしない女の子だったのですが、田舎に帰って謄本を持ってきたのです。「田舎でこれをもらってきたの」と言うので、責任者が見てみると「薩摩藩士族」と書いてあるのです。

 「士族って、あの子が?」となったのです。それから、その子に対する見る目が変わったのです。薩摩藩士族だったのですから、見る目も変わりました。

 何が言いたいのかというと、「士族」と言うだけで、一目置かれるということがあるのです。身分制度とは、そのようなものです。今は身分制度などありませんから、士族だからと言って尊敬されることもありません。何もないのです。

 でも、これは身分制度です。「私は男爵の家柄です」という人がいます。それだけで、一目置かれるのです。昔の貴族制度は公侯伯子男ですが、大名だけが必ずしも華族になったわけではありません。

 下から偉くなった人の代表が伊藤博文です。伊藤博文は公爵です。元は足軽の卒族です。足軽から公爵になれたのですから、大出世です。大名はそのままで華族になれたのです。

 しかし、一つだけ残っていたのです。薩摩藩士族です。薩摩藩は明治政府に従わなかったのです。薩摩藩は「俺たちの藩から西郷さんが出ているのだ。どうして明治政府に従う必要があるのか? そんなものには従わない!」と言ったのです。意気込みが凄いでしょう。

 明治5年に廃刀令が出ているのに、薩摩藩は丁髷を結って、刀を差したままです。薩摩藩は明治政府には全く従いません。明治政府に「丁髷を切れ、刀を差してはいけない」と言われても、「なにを言っとるんや!」と言って、いうことを聞きません。

 明治5年の廃刀令の後も薩摩藩は、丁髷を結って刀を差して堂々と歩いていたのです。西南戦争は明治10年ですから、10年までそれが続いたのです。西南戦争では明治政府が勝ったので、薩摩藩は法律に従ったのです。

 それまでは、薩摩藩の法則です。士族としての気風は、やはり薩摩だと思います。昭和44年頃まで「薩摩藩士族」と書かれていたのです。士族など、明治元年のとっくの昔に終わっているのです。

 士族はなくなっても、戸籍は残っていたのです。それがいつまで残っていたのかというと、薩摩藩の場合は、昭和45年頃まで残っていたのです。今、戸籍を取り寄せても、そんなものは残っていません。士族も華族もありません。

 「俺の家は昔、侍だった」と言っても、足軽もいたのです。足軽は、どのような侍なのかというと、田んぼを持っていたのです。やっていることは、百姓です。お城に登城する必要がありませんから、お城に行かなくてよいのです。ということは、殿さまにお目見えできません。それを「お目見得以下」と言うのです。身分はどういうわけだか武士です。

この話にもいろいろとあります。奈良県には十津川という所があり、郷士がいます。その村は村人そろって郷士です。十津川は郷士の村です。郷士は武士だけれども、禄は出ません。自分で山林に入ってキコリをやったり、畑を造ったり、米をつくっても殿さまに納めなくてよいのです。自分で造ったものは、自分のものなのです。十津川郷士には、そのような資格が与えられたのです。

それは、後醍醐天皇に味方をしたという話です。「十津川郷士は永久に税金がない郷士である」という身分を与えられたのです。やっていることは、お城にもいかない百姓です。面白い身分でしょう。これを郷士というのです。それでも明治の時代に士族になったのです。十津川村は士族村ですから、みんな威張っていたのです。

朝鮮でも両班の族譜というのがあります。家系図に「両班」と書いてあるのです。すると、「うちは両班だった」と喜ぶのです。両班以下は、平民です。両班より平民のほうが多かったのですが、平民といっても、白丁が大半でした。

白丁になると、名前もなければ、お墓もありません。字も書いてはいけません、「白丁の先祖を訪ねる」と言っても、元々名前がないのです。名前が伝わってきているのが族譜です。先を争って朝鮮では、お金を出して自分の家系図を作ってもらったのです。「先祖は両班だった」という家系図を後から作るのです。その家系図を大事に持っていて、「ほら、うちは両班の家系だ」と朝鮮人はやったのです。両班の家系だと、韓国では今でも怖がられると同時に尊敬されるのです。身分とは、そのようなものです。

士分など大した身分ではありません。一番下は足軽です。足軽というのは、武士と農民の間の身分です。武士は禄で食べていけるのです。年間、10石、20石ともらって生活をしていたのです。

足軽の場合は、1年間に1俵くらい出るのです。1俵では足らないから、百姓をやって働くのです。足軽は、ほとんど百姓です。戦争になると槍を担いでいくだけです。そのような者は、郷士扱いです。

明治政府は、それを「卒族」と言ったのです。「士分でもない、平民でもない、ちょっと上の卒族だ」と言ったのです。そのような身分制度が明治10年頃まで続いたのです。それから、「カッコ悪いから卒族というのは止めよう。貴族、士族、平民でいいのではないか?」というように身分を分けたのです。

1階級身分が違うと、格段と違います。例えば、土佐の例で言うと、坂本龍馬は郷士です。郷士ということは、卒族です。武士ですが、一番最下層の身分です。土佐にはそれが大勢いたのです。

土佐藩を治めていたのは、長曾我部元親です。長曾我部元親が戦に敗れて、遠州掛川から山之内一豊が土佐にやってきたのです。殿さまはもういませんが、地元の郷士が大勢いたのです。山之内一豊の家臣は400名くらいです。郷士は1万人近くいたのです。

喧嘩をすると山之内一豊の家臣団のほうが負けてしまいます。「わかった、お前達の身分は武士にしてあげよう」と言って、郷士になったのです。「坂本龍馬が郷士だった」と言っても、そのような身分です。土佐のお城に登城して、殿さまに会えるのは士族です。足軽はお城に行かなくてもよいのです。

徳川家でもそうです。侍の身分の武士を旗本といいます。旗本は立派な侍で、何百石という禄をもらうお大臣です。その他に渡辺謙が演じた「御家人斬九郎」という御家人がいます。御家人というのは、お城へ行く資格がありません。「登城!」ドンドンドンと太鼓が鳴ってもお城には行きません。

「何故、お城へ行かないのか?」というと、「お目見得以下」と言うのです。将軍様にお目見えすることができないのです。「殿さまは見なくてよろしい」ということです。お城に上っていく侍のことを旗本と言ったのです。

しかし、徳川家の旗本というのは、大名と格が同じです。御家人は侍ですが、諸藩の足軽と同じです。しかし、身分が違います。御家人という名がついていますが、やっていることは足軽です。

奉行所で二本差しをしている同心がいます。同心というのは、御家人です。御家人の同心は袴を普段は履きません。普通は、着流しです。

有名な長谷川平蔵は旗本です。同心と旗本では身分も違いますが、見た目も全然違います。旗本と御家人の違いは見ればすぐにわかるのです。

赤穂浪士は藩が潰れてしまったのです。藩が潰れた後にも侍がいます。もうお殿様もいないし、藩も潰れてありません。「昔、侍の身分だった」という人を浪人というのです。映画で浪人は、刀を二本差していますが、本当は一本差しだったのです。「昔は武士だったのですよ」と言っても、今は武士ではないのだから、遠慮して1本差していたのです。

そのくらい身分制度は凄いのです。それを知っている人から見ると「えっ、薩摩士族だって?」と言われると、一目置かれるようになるのです。身分とは、そのようなものです。平民と薩摩藩士族の差など少ししかありませんが、それでも全然違うのです。

そのようなことも、魔子ファンの連中はわかっているのでしょうか? そのような身分を飛び越えて、「華族だ」「公家だ」という身分があって、触ることも見ることもできない、最高峰のお立場に天皇がいるのです。

また、正一位、正二位という位があり、正四位という位だけでも大変な身分です。正一位など、大名でもなれません。せいぜい、なれて正三位か、正四位です。これが天皇から見た、家臣の位です。

幕府から見たら、「足軽か、郷士か、大名か」と見ているのですが、天皇の家臣は、正一位、正二位という位です。愛知県にある豊川稲荷さんは、正一位です。天皇から見ると、一番上の家来です。

こんなことを知らないで皇族をやっている奴はバカなのです。「自分の家が如何に尊い家柄であるのか?」ということがわかっていないのです。庶民から見たら、皇族は神様です。手も足も出ません。もし、道で会うことがあったならば、平伏しなければいけません。

先ほど、言い忘れましたが、土佐の山之内一豊の家臣の上士侍が来て道端で会うと、郷士は草履をぬいで土下座をしたのです。草履を脱いで裸足になって、土下座をしたのです。

「上士が来た」と思ったら、郷士は道にはいつくばって土下座をしたのです。雨が降っていても、傘を閉じて、道端に土下座をしたのです。上士と郷士でも、このくらい凄い身分差です。これではたまりません。郷士は怒るでしょう。

雨が降っても、郷士は草履をはいてはいけません。郷士は裸足で歩くのです。上士はゲタをはいてくるのです。郷士は地べたに裸足で土下座をするのです。こんなに身分の差があるのです。

魔子ちゃんは知っているのでしょうか? 天皇がどれだけ偉いのか知っていますか? 雲の上の雲の上の雲の上の雲の上の、また雲の上の人が天皇です。

国民はその身分制度の伝統に対して、天皇は「神」という位置づけだから尊敬しているのです。この天皇の孫が、「ヤクザのジゴロ」を連れてきたらどうするのでしょうか? 「私、この人と結婚するのよ、文句ないでしょう? この人はお金がないのよ。私が面倒をみて食わせてあげるのよ」と言っているのです。プー小室の事件は、そのようなことです。ヤクザのジゴロをくわえ込んだ皇族がいるのでしょうか?

「私は皇族です」という自覚があったら、下郎などと接触してはいけないのです。「私が好きになった人だから、どうしても結婚する!」と言うならば、下郎と同じです。そのようなバカなことを、つっぱって言うのではありません。

この話は国民に、浸透してきています。魔子ちゃんの結婚問題は、お金の問題ではりません。「小室佳代が400万円を借りて返したのか?」という話ではありません。身分違いの皇族か、足軽以下のヤクザのジゴロをヒモにするという話です。そんなことは絶対に許されません!

最近は、そのような論調が増えてきています。プー小室の事件は、400万円の問題ではありません。家柄の問題です。そうなのです。結論は、家柄の問題です。全ての身分制度はなくなったけれども、「天皇」という身分制度が残っているではないですか! 天皇家だけが唯一残っている身分制度なのです。

それを魔子ちゃんは自覚しなさい! 自覚しなければ、お前は「下女、魔子だ!」と言われても仕方ありません。

「私は尊い家柄なのだ!」という自覚を持っているから、尊称を与えられるのです。魔子ちゃんは、尊称に値する行為をやっていません。ヤクザ者のジゴロを連れてきて、「死んでも一緒になりたい!」など、こんなバカな話はありません。

「国民のことなどどうでもいいのよ、私達二人の幸せしか考えていないのよ」などというバカなことを言う奴がいるのでしょうか? そんなことを言っているならば、今すぐ皇室から出ていきなさい! 大事な皇族の身分を持ちながら、何という愚かなことをやるのでしょうか? どうしても、プー小室と結婚したいのであれば、魔子ちゃんは河原乞食になりなさい!

国民を大事に思う心がなければ、皇族ではありません。詐欺師で無職のジゴロ男を連れてきて、「国民よりも、この人が大事だ!」などという愚かな皇族はいません。

 

 

■眞子さま、絢子さんからベビーカーを“奪い取る” 「あまりの形相に戦慄した」と関係者

●絢子さんのベビーカーをめぐり

 

また、眞子さまのストレス源はX氏だけではない。20188月に、日本郵船社員の守谷慧さんと「納采の儀」を行い、10月に結婚された守谷絢子さんの順風満帆ぶりも、眞子さまにとってお辛いことのようだ。皇室ジャーナリストの伊藤友香子氏はこう話す。

「絢子さんは臣籍降嫁後まもなく懐妊し、20191117日に男児を出産されました。守谷さんの経歴は完璧で、文句のつけようのない好青年です。そして、眞子さまと小室圭さんのように自由恋愛ではなく、絢子さんの母・久子妃殿下の紹介によるものでした。

秋篠宮家の元職員から話を聞いたところ、当初、眞子さまは絢子さんのご結婚について『お見合い婚ですか、前時代的ですね。私と圭くんのような愛の形を知らないのでしょうね。赤ちゃんは作れるのかしら?』と評されていたそうです。それだけに、順風満帆な結婚生活を送られていることには穏やかではないご様子だとのこと」(伊藤友香子氏)

絢子さんの出産後、久子さまは頻繁に守谷邸に足を運び、子育てを手伝われてきたという。絢子さんも、よくご子息を連れて、高円宮邸を訪れ、久子さまや承子さまと楽しく過ごされることも多いようだ。

ところが、眞子さまのある行動が、穏やかに過ごす高円宮家を驚愕させることになったという。ある宮務課の職員は次のように話す。

「昨年のお正月、まだコロナ禍以前のことですが、絢子さんが守谷慧さんとご子息とともに高円宮邸に新年の挨拶に来られました。その後、久子さまのご提案で、宮邸周辺の散策をされていたのですが…。眞子さまがそこに偶然通りかかり、ベビーカーを押す絢子さんの姿を確認すると、まさに猪突猛進といったご様子でそばに近寄られてきたのです。

久子さまは“様子が普通ではない”と驚かれ、とっさに絢子さんと赤ちゃんを守ろうとされたものの、眞子さまの俊足を前に間に合わず。なんと眞子さまは絢子さんの手をベビーカーから引き剥がし、それを奪われようとしたのです。周囲は騒然となりました」(宮務課職員)

その後、眞子さまは久子さまや側衛の「落ち着いてください!」との喝にハッとされ、また凄まじい勢いで宮邸へと戻っていかれたという。

「あとで秋篠宮家の側近が説明したところによると、眞子さまは小室圭さんとの赤ちゃんを望むあまり、絢子さんのベビーカーが自分のものであると錯覚したとのこと。陳謝を受けたのですが…。眞子さまの形相に、高円宮の方々は皆顔面蒼白、といったご様子でした。久子妃殿下は、『一度カウンセリングなどを受けたほうがよろしいのでは?』と紀子妃殿下に進言されたのですが、『嫌味ですか?!』と取り合ってもらえなかったようです」(同前)

紀子さま、眞子さまが一日も早く穏やかな日々を取り戻されることを祈りたい。

https://imperialism.site/archives/23922

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

 

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

 

 

 ■『中杉弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

(ライブドアがフリーズすることがあるので、『中杉弘の人間の探求』で「法華経入門講義」を第一回から掲載しています。そちらをご覧ください。)

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137   

 

■『中杉弘の人間の探求』にて、「法華経入門講義」を連載しています!

こちらもご覧ください。

    ↓↓↓

https://ameblo.jp/nakasugi2020