日本軍の亡霊 ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 夏になると日本軍の亡霊の話はあちこちで聞こえてきます。フィリピンの小学校に日本軍の兵隊さんが押しかけてきて大騒動になったこともあります。ご存知、硫黄島の幽霊も有名な話です。

 その他、防空壕や、トンネルなどに日本兵らしい亡霊が現れて恐怖のどん底に陥れているのです。本当は日本軍の亡霊は怖くないのです。何も悪さをしません。

 2.26事件で有名な文句があります。「財閥富を誇れども社稷を念う心なし♪」昭和維新の歌は、青年将校の心境を語った歌です。昭和11年(1936年)、貧しくて農家では娘を売り払って生活をしなければいけない状況だったのです。

 特に兵隊は農家からとったので、農家の悲惨な状態は聞くに堪えなかったのです。幹部は兵隊の相談にのるから「ひどい話だな」と思っていたのです。上を見れば財閥が跋扈していて、毎日赤坂や神楽坂の料亭で宴会を行って、太った腹を叩いて笑っていたのです。

 財閥は天皇陛下の心を思う者もなく、仏教の教えに帰依する者もなく、神道を敬う気持ちもなく、ただ権力だけを誇っていたのです。今と同じです。権力に頼り、財閥と政治家が癒着して、共に増長しあって、何とも言えない醜い世の中になっていたのです。

 軍部といっても少佐・中佐・大佐になれば物事がよくわかってくるので、わからないこともありませんが、青年将校はまだ20代です。命をはって兵隊になっているのに、上を見ると「この堕落はなんだ!」そのような思いがこみあげてきて、それが暴発して2.26事件が起きたのです。

 三島由紀夫も2.26事件には関心を抱いています。青年将校たちの心について関心をもっていたのです。野中大尉が我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ」と言ったのです。行動を起こすということは、陽明学です。

 日本には漢学の素養があり、陽明学と朱子学があります。朱子学とは、大義名分を論じた学です。「その大義は、謂れは」ということを追及して、「大義名分のない戦いをしてはいけないし、意味がないのだ」ということを言っているのです。

 それに反して王陽明の陽明学があります。これは「大義名分などいらぬ。知ったことは実行しなければならない」という学問です。格物致知(かくぶつちち)というのです。「物事の本質を実行するということは、行動するということである。そうしなければ、本当の姿はわからない」これが陽明学です。

 「考え付いたことは実行しろ。行動すればその考えが正しいかどうかわかる」というのです。いくら行動しないで文章を書いていてもダメなのです。三島由紀夫が行った行動は、陽明学です。同時に2.26事件の青年将校たちが行った行動も陽明学です。

 基本に流れているものは、「やってみなければわからない」という陽明学です。「日本の国は腐っておる。では、どうするのか? どうやったら治るのか?」といくら頭で考えても、実行しなければわかりません。だから実行したのです。

 大塩平八郎の乱もそうです。自分は幕臣の与力で身分も高いのに、困った民を見捨てて見てはいられなくなったのです。「やったるぜ!」と、自分の本も屋敷も売り払って、軍備をして、大砲を叩き込んだのです。

大塩平八郎は幕府の役人です。大塩平八郎は陽明学を教えていたので、骨身に染みて知っていたのです。この陽明学が違う形で現れたのが薩摩藩です。

 薩摩藩は「義を言うな!」ということが、合い言葉です。薩摩藩は、14歳の頃からずっと合宿生活をして、27歳まで郷中教育を行っていたのです。先輩が後輩を仕込んでいったのです。

 その時の教育の基本が「理屈を言うな!(義を言うな!)」ということです。郷中で育った薩摩人は「義を言うな!」と言うのです。「ふざけたことを言うな! 黙って行動しろ!」これが恐ろしいのです。

 その伝統に則った示現流(じげんりゅう)は、すごい技です。「敵と戦わなければいけない」という時に、家に帰って袴をはいて、たすき掛けをして、鉢巻をして、刀をもって、いざ出かけていくならば、怒りの気持ちは消えてしまいます。

 思い立ったらすぐ実行しなければいけません。相手を殺そうと思ったら、その場で殺すのです。考える必要はありません。「義を言うな!」ということです。理屈をグチャグチャと考えるのではなくて、黙って行動をするのです。その結果、自分が死のうが、相手が死のうが、どちらでもよいのです。「今、自分が思っていることを成し遂げろ」これが、薩摩が恐れられた理由です。義は言わないのです。

生麦事件で英国人が斬られたのはそれです。普通ならば、殿様の前を英国人が横切ったら「殿さま、どうしましょうか?」と聞きます。殿様が「斬れ」と言えば斬るのでしょうが、何も言いません。黙って薩摩藩士がすっ飛んでいったのです。殿さまに相談もしないで黙ってすっ飛んでいき、いきなり英国人を斬り殺したのです。一人斬り殺して、一人が重傷です。

 物も言いません。黙って英国人を斬ったのです。その後で、藩にどのような迷惑がかかろうと、或は自分が切腹させられるかわかりません。未来は一切考えません。黙って行動するのです。だから島津藩は恐れられたのです。島津藩は上から下までみんなそうだったのです。

 西郷隆盛もそうです。西郷さんは、薩摩人の郷中の親方をやっていたのです。だから死をも恐れなかったのです。西郷さんはみんなから尊敬されたのです。勤王の僧月照が革命に失敗して逃げてきて、「それは気の毒でごわす。おいどんも、一緒に死にましょう」と言って、若い頃、僧月照と共に錦江湾に飛びこんだのです。僧の月照は死んで、自分だけ命が助かったのです。

 その時から西郷さんは、自分の命は簡単に捨てていたのです。それは薩摩の郷中教育の結果です。西郷さんにウソがありません。だから、みんな西郷さんについていくのです。「だまされた!」とうことは、絶対にありません。(②に続く)

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。
よろしかったらクリックしてください。

応援よろしくお願いします!

    ↓↓↓


人気ブログランキングへ

 

『中杉 弘のブログ』2006年より、好評連載中です!

     ↓↓↓ 

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137