アテルイの怨霊 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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ねぶた祭りは、アテルイと坂上田村麻呂の戦いが原型です。

 

 

 青森では8月にねぶた祭りを開催します。これは巨大なだしが町中を練り歩くのです。その絵を見ると、武将や鬼が描かれている壮大なお祭りです。

 掛け声は「ラッセラ、ラッセラ、ラッセラ・・・」です。このお祭りの謂れを知る人は少ないと思います。青森出身の人に聞いてみると「これは蒙古と日本の武士の戦いだ」と解釈しているのです。

 これは違います。平安時代、東北地方はまだ大和朝廷の力が及びませんでした。そこに蝦夷(えみし)がいて、村々をつくって生活をしていたのです。蝦夷は大和朝廷には従いません。それで、その酋長のことを阿弖流爲(アテルイ)」と言ったのです。副官は「母礼(モレ)」です。

 これをやっつけるようにと朝廷から命令されたのが、征夷大将軍の坂上田村麻呂です。征夷とは、夷(えびす)を征する大将軍です。坂上田村麻呂は約1万人の軍勢をもらって、東北に登り陣を引いたのです。

 ところがアテルイは強くて、馬に乗ってやってきて、坂上田村麻呂の軍をやっつけて、馬に乗って逃げてしまうのです。ものすごく強いのです。最終的には500騎くらいまで増えるのですが、たいしたことはありません。征夷大将軍の軍は1万人いるのです。でも、勝てないのです。

 そこで坂上田村麻呂は計略を思いつくのです。「アテルイよ、一杯飲もうではないか」と酒席を儲けてアテルイを呼んだのです。「ここらで仲良くしよう。これ以上戦争しても意味がない。わが軍の大将である朝廷も貴方がたのことを認めるであろう。私と一緒に京都に行って、天皇にお会いしよう。そうすればお互いに仲良くやっていけるだろう」と言って、アテルイとモレを連れて京都に登るのです。

 坂上田村麻呂が「絶対、貴方がたを殺すようなことはしないし、部下も生かす」と言うので、500名の部下が現地に残ったのです。アテルイとモレは京都に行ったのです。すると朝廷は怒って蝦夷の顔を見に来たのです。するとヒゲだらけの顔で「これは鬼だな。こんな者と共生することはできない。ぶっ殺せ!」と言って、殺してしまったのです。

 『日本紀略』には、802年4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されています。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入りました。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑されたのです。

 坂上田村麻呂は武士ですから、「何故、こんなことをするのか。私は殺さないという約束でここに連れてきたのだ。それを殺してしまうとは何事か!」と怒ったのです。田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を期し1994年(平成6年)11月に、「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されました。

アテルイとモレが殺された後、残った500名の部下に穴を掘らせて、生き埋めにしてしまったのです。朝廷もひどいことをやります。

 生き埋めにしたアテルイの部下を地面から踏みつけたのです。「二度と立ち上がってくるのではない!」と踏みつけたのです。それが「ラッセラ・ラッセラ・ラッセラ・・・」という跳人(ハネト)踊りです。

 「お前達、二度と地面から出てくるのではないぞ!」と踏みつけたのです。「ラッセラ・ラッセラ・ラッセラ・・・」とは、大地を踏みつける跳人(ハネト)踊りだったのです。跳人(ハネト)踊りをして土を固めていったのです。これがねぶた祭りの始まりです。

 ねぶた祭りは、アテルイと坂上田村麻呂の戦いが原型です。蒙古との戦いではありません。青森の人間ですらそれを知りません。ねぶた祭りは、以前「坂上田村麻呂賞」があったのです。

 後世の我々が思うことは、平安時代には馬がいたということです。アテルイは馬に乗った騎馬軍団です。木曽馬という小さい日本の馬なのでしょう。それから武器を持っていたのです。朝廷軍は直刀をもっていたのです。直刀は斬るのではなく、突くのです。突く武器です。

 アテルイは剃りのある刀ですから、馬上から振り下ろすとサーと斬れるのです。そのような違いがあったのです。アテルイは勇敢だったのです。今でも東北は勇敢です。関東軍は東北の連中がいたから本当に強かったのです。死ぬことを恐れないのです。「武人の誉れ」などと思っているのは、東北のほうの連中です。

 大阪は一番弱かったのです。大阪人はベラベラしゃべるだけで弱いのです。東北の人々は勇敢で無口です。アテルイの血を引いているのです。

 このようなことを覚えておきましょう。計略というものがあるのです。大和朝廷はやる時はやるのです。この辺りはまだよくわかっていない歴史です。蝦夷とはどのようなものか? 蝦夷とアイヌはどのように違うのか? どのような言葉が使われたのか? 東北ではまだ蝦夷の言葉が残っています。アイヌとは違います。

 東北に変わった地名があるのは、蝦夷の言葉です。蝦夷は毛深くて顔がゴツイのです。DNAの研究では、アイヌも蝦夷も大和もみな同じDNAです。素晴らしいDNAをもっているのです。日本が一つの国になっていくためには、このような戦いがあちこちであったのです。

 九州をめぐれば、薩摩隼人・熊襲・土蜘蛛など、恐ろしい蛮族の連中がいたのです。その中で朝鮮族も少しはいたのでしょう。それだけの話です。その中で大和朝廷はだんだんと固まっていったのです。

 

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