謎の女王卑弥呼 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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 3世紀の頃、中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」の中に「女王卑弥呼が魏の国に朝貢をした」という記述があります。魏の国は見返りとして印鑑をあげたというのです。これが「親魏倭王」と書いてあるのです。この金印を与えたのです。

 その他、「景初3年と裏書がある銅鏡100枚を与えた」と書いてあります。「女王卑弥呼が死んで計100歩の円墳をつくった」と書いてあるのです。

 問題は「邪馬台国がどこにあったのか?」ということよりも、これを探してください。この印鑑は、未だに出てきません。似たような印鑑が志賀島(しかのしま)の畑の中から見つかったのですが、あれは「漢委奴国王」ですから、全然違う印鑑です。

 それを持ってきて、「卑弥呼がもらった印鑑が見つかった!」ということを考えていますが、「親魏倭王」の印鑑は見つかっていません。鏡も100枚もらったのです。それは一枚も発掘されていません。

 面白いことに「景初4年」と書かれた鏡は見つかっています。しかし、卑弥呼がもらった鏡は「景初3年」です。景初は3年までしかないので、景初4年はないのです。だから、「景初4年」の鏡は日本でつくった偽物だろうと言われています。

 徹底的にこれらを探さなければいけないのです。文献の上で邪馬台国の記述に関して言われたことは、まず読み方から違います。「邪馬台国」「邪馬壱国」という人もいます。「邪馬壱国と、書き間違えたのだ」という人がいますが、そんなはずはありません。

 一応これは公文書です。公文書の字を間違えることはないのです。日記ではないので、一字一句間違えてはいけないのです。そんなことはあり得ません。

 まだ、お墓も発見されていません。女王卑弥呼の読み方も決まっていません。まだあります。この「魏志倭人伝」の記述通りに行くと、どこに到達するかわからないのです。

 「奈良盆地だ」「九州の博多だ」「四国の山の中だ」「ハワイだ」「沖縄だ」「宮崎県だ」と様々な説があります。文章が短いから誰でも参戦してくるのです。「よし、俺が見つけてやる!」と方位に基づいて考えてみるのですが、100人が100通りの意見になってしまいます。

 例えば、「水行十日、陸行一月」と書いてある文章があります。「陸行一月」というのですから、「船に乗り十日、一月陸を歩るく」とも読めます。或は、「陸で行くと一月かかり、船でいくと十日で行く」とも読めます。そのようにわかりにくいのです。

 これは中国語自体の問題もありますが、はっきりと書いていないから、勝手な方角を言っているのです。それで実際の地名にあてはめていくのです。

 その中で面白い説を唱えている人がいます。これは、飛鳥昭雄氏です。九州が朝鮮半島の上で、日本列島が上にに90度転回するのです。元はこのようになっていて、それが今の形になったのだといいます。それには、方位が90度ずれているといいます。それもおかしいのです。

 わずか2千年も経っていない間に、日本列島が90度も動くわけがないのです。そんなことは考えられません。それがあったならば、「2千年間の間に大陸が動いていた!」と、誰かが書いています。

 この説は、かつて朝鮮がつくった地図というものがあり、朝鮮の地図はそうなっているのです。ということは、日本のことがよくわかっていなかったということです。九州までは来るのですが、その先がどうなっているのかわかりません。

 今のような地図はありません。海の先がどうなっているのかなどわからないのです。船に乗って測量したのが徐福です。事実、朝鮮人は「日本は海の真ん中にあった」と書いているのです。この地図が間違っていて、そのように書いたのです。

 その元になる地図が中国にあったかもしれません。その地図が間違っているから、物まね朝鮮が地図を写して、「日本はこうなっている」と思い、それに基づいて書いたということならあり得ますが、日本列島が90度も回転したなど考えられないことです。

 我々が頭で考えている東や西も全然違うのです。東は日が昇るところです。日の昇るところは、年月と共に変わっています。日が昇るところが東です。沈むところが西です。これでみるといい加減なものだとわかります。

 いずれにしてもボツです。執拗に東大と京都大学がかぎまわっているのです。東大は「邪馬台国は九州にあった」といいます。京都大学は「邪馬台国は奈良盆地にあった」といいます。纏向遺跡です。なぜ、必要にそのようなことを言うのでしょう。

 最初に言ったとおり「金印を出せ!」「銅鏡を100枚見つけてみろ!」と言えば勝負は一発で勝負はついてしまいます。卑弥呼の墓をみつけてみてください。この3っともないくせに、「魏志倭人伝」が如何にも正しいかのように泡を飛ばして、何代にもわたって論争をやっているのです。結論は簡単です。邪馬台国はなかったのですから、ないことにするという考えはないのでしょうか。

 『古事記』にも『日本書紀』にも出てこないのです。邪馬台国や女王卑弥呼は、我が国の歴史書には出てきません。中国の歴史書には出てきて、もらった物は出てきません。お墓もわかりません。書いてある通りに行くと、どこへ行くのかわかりません。それをなぜ「邪馬台国はあった!」と言うのでしょう。

 僕は「邪馬台国はなかったのだ」と結論づけをしています。誰かが発見して、「女王卑弥呼の印鑑はあった」と言えば、それはあったことになります。見つかるまではなかったのです。しかも、日本人は日出処の天子、書を没する処の天子に致すという気概のあった民族です。魏の国に朝貢などするはずがありません。

 朝貢とはご挨拶です。朝貢して家来になるわけではありません。「邪馬台国はなかった」という論点から考えていったらどうでしょう? 「邪馬台国は有る」と言いはるならば、証拠を出しなさい。3つの証拠を出してください。

そうしたら、私はこんな意見をひっこめますが、証拠がでない間は、僕の説が正しいのです。邪馬台国は無かったのです。無いものをなぜ「有る」と言うのでしょう。このようなことが歴史学者の頭のおかしなところです。こんな変な奴はいません。

もし、九州地方に邪馬台国があったならばまだよいのです。部族の王様が統治していただけで、日本の国家を統一していたわけではありません。

 奈良盆地にあったならば、日本の国家が中国にひれ伏したという話になります。中国人が「俺らのものだ!」という根拠を与えることになるのです。「邪馬台国があった」と主張する連中は、先の先まで考えて注意して発言しなさい。


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