馬鹿は人が信頼できない | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

これはボウズP氏が言っています。馬鹿というものは、人が信用できないのです。どうしてかというと、「どのような人が信用できて、どの人が信用できないのか」ということが区別できないのです。

僕の友達の飯沢みたいなものです。甘い言葉をかけてくれる人間を信じてしまうのです。「甘い言葉の裏にホモがあり」という考え方をしないのです。甘い言葉を信じるのですから、だからだまされてしまうのです。

悪い人間は甘い言葉をもっているのです。甘い言葉をもっているので馬鹿はそちらを信じてしまいます。厳しい言葉を言うのは、真の友達であって、「お前、間違っているぞ」と言うので、馬鹿は判断できないのです。

甘い言葉を言う人が正しいのか、うるさいことを言う人が正しいのか、判断ができないから、甘い言葉を選択するのです。

すると、甘い言葉をかける人間は詐欺師が多いので、だまされてしまうのです。1回だまされると「人間は信用できない」と不信感が植え付けられてしまうのですが、何回でも同じことを繰り返すのです。

そのうち、30歳~40歳になると「人間は信用できない」と凝り固まってしまうのです。庶民は本当にそうなのです。誰が利口で、誰についていったらよいのか、誰が本当に先生なのか、自分にとって有益な人は誰なのか、まったくわからないのです。五里霧中ということです。

愚かくらい悲しいことはないのです。これはまた、めくらでもあるのです。物事の本質がわからないのです。正解は、人間にはよい人もあれば、悪い人もいるのです。これが正解です。「人間はすべて信用できない」などという馬鹿がどこにいるのでしょうか。信用できる人間も大勢いるのです。自分のために役立つ人も大勢いるのです。

それが「人間は誰も信用できない」など、完全な孤独の穴に落ちてしまったのです。哀れであり、惨めな人間です。

人間はだんだん信用できる人が多くなって幸せです。「あの人も信用できる」、「この人も信用できる」と思って、共に生きているのです。そこに幸せを感じるのです。「どいつも、こいつも、みんな信用できない、全て俺の敵だ!」という考え方になっていたら、それはさみしいことです。誰も信用できないから最後に野垂れ死にするのです。

 女優の大原麗子などは、表面は美人でしたが中身はそうなのです。だから、死ぬ時も人に知らせられないので、孤独の中に死ぬのです。

 ポルノの女優だった飯島愛はエイスで死んだとイギリス誌では言われています。死んで体が腐るまで、人が誰も気が付かないなど、孤独の成れの果てです。

死ぬ時にはどうしたらよいのかというと、周りに人が大勢いて、「お爺ちゃんあっちの世界へ行くの?」と聞かれたら「そうだよ、まかしとけ! 先に行って待ってるぜ!」と言えるような気持で死ねばよいのです。

 誰もいない部屋でバタンと倒れて、来る人も誰もいない中で死んでいくなど、孤独の成れの果てです。現代人の精神状態はみなそうなっています。横のつながりがないのです。

 僕はもっと言いたいことがあるのです。本当は理解などされなくてもよいのです。「理解されない」ということは、普通は「孤独だ」と思うのですが、そうではないのです。理解しない方が悪いのです。正しいことを教えてあげているのに、理解できないのです。理解できない人が悪いのです。

 「理解できない人に認めてもらおう」などということは、意味がないことです。正しいことを淡々とやっていくならば、人が認めようが、認めなかろうが、やっていくことは孤独ではないのです。皆のことを考えてやっているのです。皆がそのことに気が付かないだけなのです。

 現代社会で一番大事なことは、そのようなことです。「誰が偉くて、誰が馬鹿で、誰が立派で、どこの国が立派で、どこの国が立派でないのか」、ということがわかる人間になることが大事です。

 「大和民族はこのような民族」、「朝鮮人はこのような民族」、その違いがわかる人間になることが大事です。よくコーヒーでも「違いがわる」と言います。それはコーヒーだけなのでしょうか。コーヒーの違いがわかるならば、民族の違いもわからなければダメでしょう。

 その前にまず、男と女の違いがわからなければダメです。「私は女」、「俺は男」そこからして違いがあるでしょう。そして、親と子供、自分は子供なのか、或は親なのか、そのような違いがあるのです。

違いがちゃんとわかっていくということが、人間の修行の完成です。「先生も生徒も同じ、みんな平等、馬鹿も利口も平等、給料もみな平等にしろ、利口などない」という社会主義的な考え方では人類は発展しません。それは真実ではないのです。

 真実は、生命というものは千差万別です。草もあれば、木もあります。ゴリラもいればオラウータンもいます。豚もいればライオンもいます。生命はみな違うのです。その違いをわかり、違いが差別にならないようにしていくことが大事です。

 「違いがあるから差別する」、「朝鮮人は6万3千個、人類とDNAが違うから差別する」そうではないのです。「この人たちはこのようなことをやる」と、知った上で頭において行動すればよいのです。

 違いがわかって、仲良くできるのです。隣にドロボウが住んでいたらどうしますか? ドロボウとは仲良くできません。「どうもお隣さんは夜になると鳥打帽をかぶって出かけるらしい」これでは仲良くできません。しかし、「差別しろ」ということではないのです。それが本当の正解です。


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