戦時下の中学生生活〜祖父の記録から〜 | 無料塾「中野よもぎ塾」のブログ

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こんばんは、塾代表の大西ですニコニコ

私たち中野よもぎ塾は、経済的な事情で塾などの学校外教育を受けていない中学生を対象にした、無料の塾です。
このような無料や非営利の塾が昨今増えてきていますが、その背景には、現代の豊かさの中で、経済格差が大きく広がり、また教育をする側のあり方、教育を受ける側のあり方が変容してきているといった時代の流れがあると思います。

そんなことを考えていると、昔の中学生はどうだったのだろう、ということを考えたりもします。
昔といっても、私の中学生時代、つまり20年くらい前の話ではなく、もっと昔……。
そこで、私の亡き祖父が書き残した本(自伝のようなものを出版しています)を読み返してみました。
出版されたのは1995年、祖父が65歳の年。
新聞記者をしていた母方の祖父が、ずっと書きためていたものや、昔のさまざまな記録資料をあたって事実確認をしながら数年がかりで書き上げたものです。

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1930年生まれの祖父が中学生になったのは、1942年。
このとき、日本は太平洋戦争の真っ直中にありました。そして、この1942年というのは、日本が初の空襲を受けた年でもあります。
祖父の入学直後の4月18日に、B25爆撃機が東京や名古屋を襲ったのです。

祖父は、愛知県にある豊橋中学というところに入学しました。
吉田藩の藩校「時習館」をルーツとする、五年制の中学でした。今の「時習館高校」の前身が、この豊橋中学です。

この中学に通うには、制服を来た上で、「戦闘帽、ゲートル、背嚢」を使うことになっていたそうです。兵士のような格好で行くことが義務づけられていた、ということです。
1年生のときの授業科目は、国文法、漢文、数学Ⅰ、物象(物理学)、英語などがあったそうです。
校長先生からは、「夜11時前に寝るようではダメ、もっと勉強せよ」と言われていたとのこと。
また、「教練」という科目もあり、予備少尉さんを教官に、いろいろな軍隊式のトレーニングをする授業もあったそうです。
この教練という科目には、陸軍省が査閲に来るということで、かなり厳しかったそうです。
俵をかついだり、手榴弾を投げる練習をしたり、銃剣道の稽古があったり……。

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祖父が中2になると、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死します。戦死したのは1943年4月のことでしたが、国民への発表は5月だったそうです。
すると、学校は反米英の意識を高めるために、球技の部活を全部廃止にしました。
祖父は庭球部、つまりテニス部に入っていましたが、これも廃止。
テニスコートはじゃがいも畑に変わりました。

そして、祖父が中2の2月に、祖父の姉の旦那さんに召集令状が届きます。さらに、学校の先生たちにも次々に召集令状が届き、生徒たちにも陸海軍の下士官養成コースへ志願するよう、学校側が説得する動きも出始めます。

そんな中でもとりあえず毎日授業もあるし、勉強はめちゃくちゃしていたそうです。

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祖父が中3の年。1944年ですが、この年には中学生も軍事工場へ動員されるようになりました。また、農事奉仕といって、徴兵などで人手の足りなくなった農家をお手伝いに行くようにもなります。
祖父のクラスは、軍事用の飛行機を作る工場に行き、「流星」や「彗星」「銀河」といった攻撃機の部品を作ることになりました。
クラスごとに、どの工場に行くかが決まっていたそうです。
作業は、午前8時から、午後5時くらいまで。お昼ごはんは工場の食堂で、干した芋を炊き込んだ麦メシと、野菜の汁もの、みたいな質素なメニューだったようです。
しばらくすると、作業が二部制になり、午前8時~午後3時か、午後3時~10時のどちらかに配属されるようになったそうです。

そんなこんなで、攻撃機を作っているところに、愛知県は二度の大きな地震を食らうことになります。
一度目は1944年12月の東南海地震。M8の規模でしたが、戦時中だったのでニュースは差し止められ、被害がどれくらいだったかはわからなかったそうです。
ですが、近くの工場では豊橋高女という学校の女の子たちが、23人亡くなったそうです。
祖父の同級生もひとり、「晴嵐」という水上偵察機の胴体部に入って作業しているところに地震を受けて、亡くなったそうです。
祖父の家も、当然スタボロです。

その1カ月後に、今度はM7.1の地震が襲ってきます。
二度の震災で工場でも資材が足りなくなったりして、作業はお休みになることが増えたそうです。
お休みの日には、工場付近の防空壕を掘るという仕事が待っているのですが……。

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1945年になると、祖父は中学4年生です(今なら高校1年生)。この年の5月に、ドイツが降伏したので、日本は孤軍奮闘状態になります。
祖父が住んでいた豊橋市では、市中の住民を強制疎開させて、家を壊して防空壕を作るということが行われ始めました。
そして6月には、豊橋市にB29が焼夷弾の雨を降らせました。
家族で防空壕に入ると、上空でバリバリという破裂音が聞こえ始めたそうです。あちこちで火災が起きて、自分の家にも近付いてきたので、祖父の一家は別のところへ逃げて、全員無事だったそうです。
ですが、これで市内の7割の家が焼けて、624人の方が亡くなりました。
祖父と仲の良かった友達も、「空襲になったら家を守れ」というお父さんの言葉を守ろうとして、消化活動をしている間に亡くなりました。
中学校も、全焼しました。

そして8月6日、広島に原爆が落とされます。
このときには、被害状況が豊橋までは伝わらず、それほど深刻には受け止めていなかったのだそうです。
翌7日、祖父は、何人かの友達と工場に行こうと出かけます。
そのうち祖父ともう一人の友達だけ、別の道から行こうとしていたら、その友達の自転車のチェーンが途中で切れたので、行くのを諦めて遊ぶことにしました。
すると、B29の大編隊が自分たちのほうに近付いてきて、二時間近く、あたりを爆撃して回りました。
このときの死者は約2500人。
同じ中学校の子も37人亡くなったそうですが、祖父たちも、友達のチェーンが切れずに工場に着いてしまっていたら、亡くなっていたかもしれませんでした。

そして9日、長崎にも原爆が落ち、15日、日本は敗戦しました。

敗戦後は、自分たちの中学の焼け跡を片付けながら、別の中学校で授業を受けることになりました。
徐々に、授業も通常どおりにできるようになっていきました。
軍の予備学校に移っていた同級生たちもチラホラ戻ってきて、「人間魚雷の訓練を受けた」という子もいたそうです。

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そんなこんなな中学時代……。他にも、いろいろな記録が残されていましたが、ざっと書くと上記のような感じで、祖父の青春時代は過ぎていったのでした。

そんな中でも、祖父は結構本を読んでいました。谷崎潤一郎、有島武郎、芥川龍之介、久米正雄などを読みふけり、中学4年生のときには中野重治という詩人に心酔していたようです。
よくそんな余裕あるな!!……と私なんかは思ってしまいますが、当時の中学生にとっては、戦時下というのがもしかしたら「日常」のようにも感じられてしまっていたのかもしれません。
だから、「芥川かっけ~!」みたいな余裕もあった。

こんな死ぬか生きるかの状況ですから、経済格差はある程度あったにしても、きっとそのときの人生にはまったく大きな問題ではなかったでしょう。
勉強をしたい子は、学校の先生と防空壕彫りなどの合間に、「教えてくれ」とねだっていたそうです。
戦後はきっと、ゼロから、いやマイナスからのやり直しです。

でも祖父は、大学に入り、新聞記者になり、そこそこ幸せな(ように私には思える)人生を送りました。
祖父は理数系の勉強は好きではなかったそうですが、国語や英語などは好きだったようで、本もたくさん読みましたので、それが後々に活かせたのだと思います。
また、良い先生たちに出会えたおかげで、戦後すぐに授業が活気づき、勉強にも身が入ったと書かれていました。

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今の中学生の皆さんには(もちろん私にも)想像もできないような中学生生活ですが、どんな状況でも、生きて、しっかり目の前にある「今できること」をやっていけば、きっとそこそこ幸せにはなれる……私はそんな気がしています。


塾に行くことができなくったって、学校で補習の時間が十分になくったって、家にある教科書を何度も読んだり、図書館でいろんな本を読んだり、知識はいくらだって増やせます。教科書や図書館が焼夷弾で焼かれることは、もうありません。
「今の中学生にできること」って、実はすごくすごく、たくさんあります。
それをきちんとできるようになれば、経済格差を背景にした教育格差なんて、なくなるかもしれません。

そのことを、私たち大人がまず気づき、子どもたちに教えていければいいのかな……。