「一番吸収力がある時に一番良い水を」#3 | 中宮の野球ブログ

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今日は野球はやってるかな?

私が小学二年生の途中、転校した。
父親の仕事の都合だった。

転校先の小学校でのこと。
教室の座席は、中学や高校の教室のような、全員が前向きに座る形ではなく、5〜6人ほどの塊で机を向かい合わせてくっつける、という配置だった。
その5〜6人で一つの班を作る。
私が所属する班では、私の机だけ、班のメンバーによって僅かに、3cmくらい、離された。
そして、「はぐれ島」と言われた。
私は保育園児の頃と変わらず、ほとんど喋らなかった。喋る能力がなかった。喋るという発想がなかったというのが正しいだろうか。
これが発達障害なのか、愛着障害なのか、障害ではなく家庭環境によるものなのかは分からない。

教室で、何かのアンケートを書いていた。
私は「なし」と書いた。すると、それを見た班の者が「『なし』だと果物の梨だと間違えるでしょ。『ありません』って書きなよ!」と言う。私は内心「そんな間違いしないだろ」と思ったが、いつも通り黙っていた。
その口調は、えらい剣幕で、感じ悪そうに言う。
私はいつも、そんな口調で言われた。

転校先の小学校で、私は「キショイ」とよく言われた。
方言なので、初め私は意味が分からなかった。
「キショ〜」という。
その口調から、良からぬことだとは想像が付いた。
「気色悪い」、関東でいう「気持ち悪い(汚いのニュアンス)」と分かったのは後のこと。
私は清潔さは人並みであったと思う。よだれを垂らすわけでもお漏らしをするわけでもない。
でも、そう言われた。

後年、転校した当時の話を母親にしたことがある。
言うと……
「もっと干渉しなきゃいけなかったのかね!」
母親はそう吐き捨てて終わり。
共感はない。
基本的に母親も父親も、私とは言葉のキャッチボールはしなかった。私が言うことなどは無視だった。
親ガチャ、ハズレ。

ウチは3人兄弟、5人家族。
噛ませ犬のような存在が必要だったのだろうか。

私は保育園時代もイジメを受けた。
しかし……
保育園にしろ小学生時代にしろ、私は「保育園は嫌な所」「学校は嫌な所」「母親は嫌い」とは思ったが、毎日つらいと思っていたかというと、そういうわけでもなかった。
今考えれば、当時の私は……
そういう扱いを受けること、そういう立場でいることが、日常だった。
私はまだ、普通の扱い、平均的な扱いをされた経験がない。普通というのを知らないで育った。
駄目な者。弱い者。のけ者。
それが、当時の私の普通だった。

これが「おかしい」と思うようになったのは、いつからだろうか。
高校生、大学生の頃には「普通」を幾らかは知っていた。だから、無視されたら「聞いてる?」「聞こえてる?」「何で無視する?」と私は言ったことがある。父親は「うーるーさーい」と繰り返すだけだった。
そして、疎遠になった。

平成の怪物と言われた松坂大輔が、西武ライオンズの臨時コーチを務めることになった。
とても心強い。
渡辺久信GMは、「エースのメンタルを若い投手に伝えて欲しい」とコメントした。
しかし、それは無理だと思う。
エースは、生まれた時からエースの扱いを受けて育っているのだ。

木内マジックと呼ばれた木内幸男監督が、「ピッチャーは生まれるもの、野手は育つもの」と言った。
エースは、生まれた時からエースなのだ。