先週末イタリア人の友人とポーランドの古都クラコフに行った。そのメインイヴェントとしてナチスの強制収容所跡地のアウシュビッツービルケナウ行きツアーに参加。テーマが重いので翌日から書き始めたのになかなかブログが進まず、今頃になってしまった。これまでの人生の中で一番衝撃を受けた旅行だったので備忘録として残すことにする。

 

 アウシュビッツでは英、独、伊、仏など言語によるツアーに参加するのが普通で英語版に参加した。まずツアーでないと現地に行くのに一苦労だし、更に展示物の意味が分からないので、早々に友人が予約してくれた。更に到着日の夜はクラコフ近郊在住のポーランド人の友人から色々な情報を貰えた。クラコフの小中学校では遠足で強制収容所跡地に行くのが習わしで彼女も3回行ったことがあるとか。跡地が博物館として公開されたのが1947年、遠足は1990年以降とのことで、今では更に新築の建物が追加され博物館化が進んだという。小学生で展示物の内容を知るのはさぞかし荷が重かっただろう。「数十年経つ今でもありありと展示物が目に浮かんでくる」とのこと。と言うわけで、アウシュビッツービルケナウ7時間半のツアーは…

 

  アウシュビッツ強制収容所では最初にスピーカーから流れるナチスに殺害された人々の名前を聞きながらコンクリート造の坂道を延々歩いて、キャンプに到着。多分あまりにも人数が多いので、ずっと名前を流し続けても終わらないのだろう。有名なゲート(写真) をくぐる。キャンプ自体は1000mx400mとあまり大きくはないが、レンガ造2、3階建ての立派なビルがほとんど。言われなければ、強制収容所だと分からない佇まいだ。数十棟あるビルにうち幾つかは博物館に造り直され、写真や図、遺品の数々を展示している(写真)。

 

アウシュビッツー1のゲート            アウシュビッツー1の配置図

 

  収容棟では内部の撮影は基本的に禁止(特に遺品)。なので写真はない。ポーランド人の女性ガイドさんは展示物について熱心に説明してくれた。「この仕事は私の使命」と思っているのだろう。中でも衝撃的だったのは何故アウシュビッツが収容所の場所として選ばれたのかを示す地図。ヨーロッパの主要都市とアウシュビッツが直線で結ばれている。実はポーランドのアウシュビッツはヨーロッパ大陸のど真ん中に位置するので、ナチスが征服した各国から鉄道で移動させるのに便利なのだ。色んな国から連れてこられたユダヤ人、ロマ、知識人、障がい者たちは互いに言葉が通じなかったとか。例えばギリシャから連れてこられたユダヤ人たちは数日以上トイレもない家畜用車両に詰め込まれ、暑さや脱水、酸欠でアウシュビッツにたどり着くまでに多くが死亡したとか。車両から下ろされた後は、ナチスの医師による選別で強制労働が不可能な老人、障がい者、妊婦そして子供たちはガス室に直行で殺されたとか。赤ちゃん連れの女性も激しく抵抗するから同じくガス室へ。でもナチス将校の手先として使役をさせられた収容者であるゾンダーコマンダーの中には、赤ちゃん連れの母親に「赤ちゃんはお祖母さんに預けて」と勧め、せめて母親だけでも助けようとこっそり話しかけたりしたらしい。

 

  子供のうち双子は実験被験者として利用するために例外的に生かされた。とはいえその実験も麻酔無しで臓器摘出など凄惨を極める。目の実験の被験者となった子供たちの多くが失明したとか。廊下には数多くの人々が縞柄の囚人服を着た写真が額縁入りで展示されているが、全員「死亡日時」が記入してある。

 

  遺品の展示棟も悲惨。映画などで物凄い数の靴が残されているのを観たことはあったが、まさか髪の毛までとは!長髪の髪の毛は絨毯やフェルトに加工されたとか。展示中の2トンの髪からは殺虫剤の成分が検出。使用済みの殺虫剤の空き缶の数も物凄い。どうみても、収容者は人間扱いされていない…行き先も知らずに連れてこられた人々の物凄い数の革製トランクには後で分からなくならないよう大きく名前が書いてあってかえって痛々しかった。ユダヤ人のお金持ちは招待のような形で騙されて収容所に連れてこられたらしい。

 

   ショッキングな展示を観た後、今度は屋外での首吊り処刑台が紹介される。公開処刑の場合は収容者の目の前で鉄のH鋼を門のように3本繋げてある梁部に縄をかけた。その他の銃殺刑用空地は面する建物の窓を木製のボードで覆って内部から見えないようにしてあった(写真)。

  

木製ボードは後に再構築。電流が流れるフェンスと監視棟

 

   収容者は圧倒的にユダヤ人が多いが、政府に反抗する思想犯としてヨーロッパ中から多くの知識人が逮捕され、収容されたという。SS将校が話すドイツ語を理解できるかどうかが生死を分けるので、『これが人間か』(1947)で世界的に知られるイタリア人作家プリーモ・レーヴィのように必死にドイツ語を他の収容者から教わって生き延びた人もいたとか。

 

   一か所に5,6人が詰め込まれたという収容棟の3段ベットも粗末な木製で酷いけれど、立ったまま眠らせない独房として造られた90cm平方のレンガ造の小部屋も沢山あり人間は何処まで残忍になれるのか、とショックを受けた。

 

   極めつけは悪名高いガス室。土盛りされた半階部分にあるのだが、入ったとたんゾッとする寒さ。空気がやけに冷たい。他のガス室はアウシュビッツ解放前にナチスの爆弾によって破壊されたらしい。

 

  映画『関心領域』で登場したアウシュビッツ 所長ルドルフ・ヘス邸も隣接していた(写真下)。映画のようにきれいな庭があるわけではないけれど。元自宅が見える場所に戦後造られた彼専用の処刑台も残されており(写真下)、「恨み骨髄とはこの事か」と思った。映画などで良く見かける有刺鉄線フェンス(写真上)には常時電流が流れていたらしい。ガイドさんよれば、収容者は全員が従順だったわけではなく、ユダヤ人のある有名女優は銃を奪い取り数人のSS将校を倒したが、最期には殺されたという。アウシュビッツー2のビルケナウについては次のブログで。続く

 

  
旧ルドルフ・ヘス邸      ヘスの処刑台