「調布映画祭」における『永遠の0』の上映を考える/「政治的」という理由の公民館使用不許可の是非 | なか2656のブログ

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ある会社の社員が、法律などをできるだけわかりやすく書いたブログです

1.映画「永遠の0」と「調布九条の会」への調布市の対応について
本年(2015年)3月4日から8日まで、「調布映画祭2015」調布市および公益財団法人調布市文化・コミュニティ振興財団主催により行われました。調布市文化・コミュニティ振興財団のウェブサイトをみると、会場は調布市の公的施設である、調布市文化会館たづくりおよび調布市グリーンホールとなっていました。

・調布映画祭2015概要





そして、調布市グリーンホールに掲示された上のような大きな看板や、調布市文化・コミュニティ振興財団のウェブサイト等により、このような調布市などの行政庁主催者として実施する「調布映画祭2015」において、映画『永遠の0』が、調布市グリーンホールにて上映され、また、たづくり2階にて、その関連資料が展示されるという情報に接しました。

そのため、先般、文化施設たづくり2階の「永遠の0」の展示を見学しました。かなり広いスペースを使用しており、多数の展示物があり、職員の方も配置されており、主催者である、調布市および調布市文化・コミュニティ振興財団はかなりのコストやマンパワーをこの展示に費やしていると感じました。つまり、かなりの市民税などの公金を、この「永遠の0」の展示や上演などに費やしていると感じました。


一方、同じく第二次大戦について考える、「調布九条の会」の活動について、調布市は今後後援をしないと決定したという記事に、昨年10月に接しました。記事を読むと、「政治的活動にあたる」ことがこの調布九条の会への後援取消の理由であるそうでした(「『九条の会』と共鳴ダメ 調布市が後援拒否」東京新聞2014年10月4日付)。

しかし、第二次大戦におけるカミカゼ特攻隊の青年兵士達の戦死を賛美するという、軍国主義的・国家主義的な、極めて「政治的」な内容の映画「永遠の0」の上映や展示が、調布市および調布市文化・コミュニティ振興財団により強力に推進される一方で、同じく第二次大戦に関連して、この大戦への反省に基づいて、わが国の国是である平和主義について考えようという「政治的」な市民活動である「調布九条の会」はブロックしようとする調布市の行政のあり方は、ダブルスタンダードであって、極めて不当であると考えます。

2.和泉佐野市民会館事件判決
この点、自治体の公民館をある市民団体が集会のために使用許可を申請したところ、市から市民会館に関する条例に基づき不許可とされたため、この市の不許可という行政処分が集会の自由(憲法21条)との関係で違法でないのか否かが争われた著名な判決である、和泉佐野市民会館事件判決(最高裁平成7年3月7日判決)は、最高裁としてつぎのような判断を示しました。

すなわち、「集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない」のであって、市民会館に関する条例により集会のための使用不許可が許されるのは、「本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、かつ、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である」

つまり、集会の自由の重要性に照らして、公民館などの自治体の施設で申請された集会が行われることにより、国民・市民の生命、身体、財産や公共の安全の危険が発生する場合にのみ、公民館の使用不許可が許されるのであり、かつ、その危険の程度は、明らかな差し迫った危険の発生が「具体的」に予見される場合に限られると、この最高裁は判示しています。

そして、この和泉佐野市民会館事件判決の示した判断の枠組みは、その後も、上尾市福祉会館使用不許可事件(最高裁平成8年3月15日判決)などに引き継がれています。

そこで、うえでふれた、映画「永遠の0」の上映・展示と「調布九条の会」への後援取消を考えると、とくに後援が打ち切られた「調布九条の会」が問題となると思われます。

かりに「調布九条の会」の後援を調布市が行ったとしても、たとえば過激派団体などが調布市の中心部などに殺到し、市民の生命、身体、財産、公共の安全について、明らかに差し迫った程度の危険の発生が「具体的」に予見されるのでしょうか。

たとえば60年代安保闘争の時代などは、いわゆる左翼・右翼の過激派の活動がかなり活発であったと思うのですが、現在はかなり下火になっているのではないでしょうか。

そのため、和泉佐野市民会館事件判決(最高裁平成7年3月7日判決)などの表現の自由・集会の自由・政治的活動の自由(憲法21条)に関する判例の趣旨に照らし、「調布九条の会」への後援打ち切りは適切でないと思われます。

したがって、和泉佐野市民会館事件判決の趣旨に照らせば、調布市は、集会の自由、表現の自由の重要性に鑑みて、国民・市民の生命、身体、財産、公共の安全が、明らかに差し迫った程度の危険の発生が具体的に予見されるような例外的な場合以外は、たとえそれが革新派のものであっても、あるいは保守派のものであっても、国民・市民の、市民活動の集会の自由や表現の自由を尊重すべきだと考えます。

3.社会教育法23条の「公民館の運営方針」の問題
なお、調布市の「調布九条の会」への後援取消の件にダイレクトにつながる話ではないとは思いますが、この自治体の公民館等の使用不許可の問題で、ときおり引用される、社会教育法23条について考えると、社会教育法23条1項2号が、「政治的に中立」でない市民活動に公民館等を貸せない根拠条文とされることがあります。

ところが一方で、同法22条2号は、「討論会」などを公民館の事業のひとつと規定しており、国民・市民の間における意見・見解の違いを当然の前提としています。ですので、同法23条1項2項だけをことさら強調することには、法律論として、あるいは法律の条文の読み方として、違和感を覚えます。

4.行政と宗教の問題(政教分離の原則 憲法20条・89条)
さらに、政治について規定する社会教育法23条1項2項のすぐ隣である、同法23条2項は、公民館は「特定の宗教を支持し、又は特定の教派宗派若しくは教団支援してはならない」と規定しています。

しかし、私は寡聞にして、このような条文を理由として、宗教団体が都道府県や市区町村などの自治体の各種の行政サービス等からブロックされた例を聞いたことがありません。

逆に、たとえば、調布市のウェブサイトをみると、調布市は白百合女子大学ルーテル学院大学などのキリスト教系(ミッション系)の大学と、「相互友好協力協定」を締結しているようです。

・大学との相互友好協力協定|調布市

そして、「市報ちょうふ」2014年12月5日号においては、白百合女子大学における、「キリストの言葉~いのちの現象学」という名称のテキストを使用し、同大学の教授が講師を務める、「キリスト教的視点に基づく講座”創造への道”『日常の中の神秘をさぐる』」という市民講座2014年12月6日に行うことをPRする記事が、はっきりと掲載されています。

この市民講座は、講座の演目名も、指定テキストのタイトルも、いずれもキリスト教に深く関連するものであって、つまり、キリスト教を教える趣旨の市民講座であると思われます。

同様に、「市報ちょうふ」2015年3月5日号にも、白百合女子大学「キリスト教的視点に基づく講座 “創造への道”『福音の喜びの発見』」という市民講座4月11日に開講されるPR記事が掲載されています。これもタイトルからして、完全にキリスト教を教える趣旨の市民講座のPR記事が、公的な行政庁であるはずの、調布市の公式の市報に掲載されてしまっています。

相互友好協力協定の相手方として、特定の宗教(キリスト教)に基づく大学を選び、その大学と協定を結んだ時点でその宗教を支持していますので、調布市は、社会教育法23条2項および憲法20条、89条の政教分離原則の趣旨に反しています。

クリスマスやハロウィン、初詣などの世俗的な行事なら別ですが、この「キリスト教的視点に基づく講座”創造への道”『日常の中の神秘をさぐる』」等という明らかにキリスト教を教える目的の市民講座を、調布市が市報で市民にPRしたり、あるいはこの市民講座に調布市生涯学習交流推進課の役職員等が何らかの形で援助・協力などをしていれば、この点も、その特定の宗教を援助、助長、促進しているので、同法23条2項違反であり、また、憲法20条、89条違反となる可能性があります(「目的・効果基準」・津地鎮祭事件・最高裁昭和52年7月13日判決)。

もちろん私はキリスト教自体や、キリスト教系の大学自体について、何らかの意見を申し上げる趣旨ではありません。問題なのは、行政庁たる調布市と、キリスト教系の大学が違法・不当にくっついてしまっている点です。これは政教分離の原則という憲法20条、89条の定める大原則に反します。

たとえば、戦前の日本は、国家神道を事実上、国家の国教とすることにより、それを国の精神的な柱にすえることによって、国民の心を従わせて、軍国主義、国家主義を強力に推進し、第二次世界大戦に暴走してしまいました。(この点は、たとえば、池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題5』192頁以下に詳しく解説されています。)

あるいは、キリスト教に関していえば、たとえば11世紀から約170年間にわたり、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還する目的で行われた「十字軍」は、一見、かっこよいイメージとは裏腹に、イスラム教徒の兵士・民間人を虐殺し、聖地奪還を謳いながら実際は豪商の利益のための戦闘を行い、キリスト教徒の子どもの人身売買すら行われた、キリスト教を旗印とする醜い、陰惨な戦争でした。

国家と宗教が結びついてしまうことには、そのような危険性があります。そのために、世界各国の憲法は、程度の差こそあれ、政教分離の原則を持っているのが普通です。

このように、社会教育法23条2項、憲法20条、89条が、政教分離原則を定めており、自治体や公民館が特定の宗教を支持などをすることを禁止しているにもかかわらず、調布市はその趣旨をまったく守っていません

わが国の憲法20条、89条は条文の構造上、世界的にみても「厳格な政教分離原則」をとるとされています。

とはいえ、たとえば私立のミッション系の学校に国・自治体などが助成金を補助することを完全に否定することは現実的でない等の事情で、この政教分離原則にも、もちろん例外は存在します。

しかし、この白百合女子大学のキリスト教を教える内容の市民講座を調布市が市報で堂々とPRしているという事態は、あまりにもわが国の「厳格な政教分離原則」に反するのではないでしょうか。

このように、調布市は、その行政実務においては、政教分離、つまり「政治・行政と宗教」の問題に関して、非常にルーズであるといえます。

そして、「公民館と政治」との問題に関しては、映画「永遠の0」などの保守派・復古派が喜ぶような事柄に関しては、無批判にもろ手をあげて協力しています。

ところが一方、「調布九条の会」などの革新派の市民運動に対しては、過剰とも思える拒絶反応を示し、その活動をブロックしようとする姿勢は、あまりにも社会通念に照らしてバランスが悪く公平性を欠くものであって、非常に疑問を感じます。

5.公務員の政治活動の禁止と市民活動が「政治的的」であることについて
さらに、調布市などの多くの自治体が、「政治的に中立でない」という理由で、市民団体の援助を拒んだり、公民館の使用申請を不許可とする背後には、「公務員の政治的中立性」「公務員の政治活動の禁止」等の問題があるのではないかと思われます(国家公務員法102条、人事院規則14‐7、地方公務員法37条など)。

この点、北海道の猿払村の郵便局員が特定の政党の選挙ポスターを公営掲示板に掲示する等していたところ、それらの行為が国家公務員法102条等に抵触するとして起訴された事件において、最高裁は、行政の中立的運営とそれに対する国民の信頼確保という目的は正当であり、そのために公務員の政治活動を禁止することとの間には合理的関連性があるとして、公務員の政治的活動を一律に禁止する、国家公務員法102条、人事院規則14‐7などは合憲であると判断しました(猿払事件判決・最高裁昭和49年11月6日判決)。

しかしその約40年後に、国家公務員法201条、人事院規則14‐7の解釈にさらにしぼりをかけて、公務員の政治活動として禁止される行為・類型をより少なくし、その結果、管理職でない公務員に対する刑罰を認めないとする判例が現れるに至りました(堀越事件・最高裁平成24年12月7日判決)。

この点、学説は、政治活動の自由という精神的自由について、「合理的関連性があるか否か」という経済的自由のようなゆるやかな判断基準で審査することは正当でないとして、公務員の政治活動の制限の根拠は、「憲法が公務員関係の自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること」に求められるとしたうえで、一定の公務員の政治活動の自由の制限は許容されるとしています(芦部信喜『憲法[第3版]』355頁)。

このような公務員の政治活動の禁止を定める法令や判例が存在すること、そして学説もそれを許容していることから、調布市をはじめとする多くの自治体が、近年、公民館等の市民団体の使用において、その活動内容が、「政治的に中立であるか否か」につき、神経質になっているということ自体は理解できます。

(また、その背景には、反動復古的・戦前回帰的で強権的な現在の政府・与党の意向を忖度し、その歓心を買いたいという自治体の思いもあるのだろうと思われます。)

しかし、昨年10月の、調布市が調布九条の会への後援を取り消した件は、調布市が「政治的な中立」(社会教育法23条など)をあまりに過剰に意識しすぎた誤った行政処分であると思われます。

つまり、たとえば仮に、調布市の職員である地方公務員達活動の主体となり、公民館や文化会館たづくり、グリーンホールなどを使用して、「特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持」する行為(社会教育法23条1項2号)を行ったら、それは行政たる調布市の中立的運営を損ね、調布市民たる国民の信頼を失墜させる行為であって、明らかに違法であり、許されないでしょう。

しかし、地方公務員・市職員が公民館を維持・管理し、さまざまな国民・市民、市民団体に対して、公民館の会議室を提供するだけであるならば、それは特段、調布市などの地方自治体が特定の政党を支持しているであるとか、調布市の地方公務員たちが、「政治的な中立」を守っていないと評価されるおそれはないと考えられます。

むしろそれは、調布市の行政サービスや公の施設の使い方として、調布市の民主主義や地域社会の発展につながる、民主政に資する、極めて有意義な取り組みであると考えられます。

そもそも、わが国は国民主権の議会制民主主義の国家です(憲法前文1段、1条、15条、41条、65条など)。

王朝や独裁主義、全体主義の国家とは違うのですから、わが国においては、国民一人ひとりが様々な意見・見解を持つのは当然であり、むしろそれこそ最大限尊重されるべきです(「個人の尊重」憲法13条)。

そして、国民・市民それぞれの意見の違いに基づく、少数意見に配慮した、十分な議論(熟議)こそ、尊重されるべきです。

つまり、わが国の憲法は、アメリカにならい、多くの国民・市民が自由闊達にさまざまな意見を出し合い、十分な議論を行えば、より良い結論に到達できるであろうという、「思想の自由市場論」に立脚しており、表現の自由、集会・結社の自由(憲法21条)をできる限り幅広に尊重する制度を採用しています(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『』憲法Ⅰ[第5版]』352頁)。

この点は、「戦う民主主義」を採用し、表現の自由・結社の自由に、一定の制約をあらかじめ憲法上課している欧州諸国とは異なる点です。

わが国における、集会の自由、結社の自由などを含む、表現の自由(憲法21条)の価値の本質は、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという「自己実現の価値」と、もうひとつは、言論活動によって、国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な「自己統治の価値」であるとされています(芦部信喜『憲法[第3版]』162頁)。

とくにこの表現の自由の価値の本質のひとつである、「自己統治」(=民主主義)の観点からは、社会教育法22条2号が、公民館の業務のひとつとして、「『討論会』、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること」という項目を設けていることは、極めて重要であると考えます。

そのような十分な議論を国民・市民が行うためには、たとえばスターバックスなどの、人々でごった返して、BGMの音量も大きいような喫茶店は場所として適当ではないでしょう。

そういった事柄にこそ、自治体の公民館等の会議室などを使用するべきではないでしょうか。そういった意味での公民館の行政サービスの維持・管理ためにこそ、我々国民・市民は、国や自治体に税金を払っているのではないでしょうか。

そのため、調布市が昨年の10月に「調布九条の会」の後援を取消たことは、社会教育法22条2号の趣旨や、憲法21条などに照らして、正しくないと考えます。

6.憲法尊重擁護義務
また、調布市の職員の方々は、地方公務員ですので、当然ながら、憲法99条の、「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という、憲法尊重擁護義務を負います。

そのため、調布市の役職員は、表現の自由・集会の自由・政治結社の自由(憲法21条)などを尊重し擁護する義務を負っています。ですので、市の施設で映画「永遠の0」の上映や関連資料の展示などを行うことにより、それらを作成した民間の表現の自由などを尊重すると同時に、「調布九条の会」の市民運動についても、憲法の保障する表現の自由、集会の自由、結社の自由の一環として、尊重し、擁護すべきです。

7.平和主義
また、言うまでもなく、わが国の国是のひとつである、平和主義・戦争放棄は、憲法9条および憲法前文第2段の「平和のうちに生存する権利」(平和的生存権)や憲法13条に基づくものです。

(憲法前文第2段の平和的生存権については、最高裁判例は、「裁判規範」ではないとするものの、「法規範」であり、「解釈基準」であると解しているとされているので、行政庁や国会等がこれを尊重して擁護しなければならないことは当然です(長沼ナイキ訴訟・最高裁昭和57年9月9日判決))。

そのため、憲法9条、憲法前文第2段、憲法13条に対する憲法尊重擁護義務の観点からも、調布市は、「調布九条の会」への後援を取消すべきではなかったと考えます。

なお、この憲法9条、憲法前文第2段、憲法13条から導き出される平和主義・戦争放棄の観点からは、第二次大戦におけるカミカゼ特攻隊による若者の戦死を賛美する趣旨の軍国主義的・国家主義的な映画「永遠の0」の上映や、関係資料の展示などに、調布市の役職員が協力したり、市の施設の利用を許可したことが妥当なのかどうか、疑問が残ります。

8.調布市非核平和都市宣言
この点、調布市は、昭和58年9月に、調布市議会が議決し、「調布市非核平和都市宣言」を発出しています。この宣言は、その文中で、「わが国は、戦争による世界唯一の核被爆国として、また平和憲法の精神からも核兵器の廃絶と軍備縮小の推進に積極的な役割を果たさなければならない」と述べており、わが国の平和憲法の精神を、調布市議会として明確に確認しています。

・「調布市非核平和都市宣言」

また、この宣言に関連して、調布市役所の敷地内の入り口には、『平和の塔』が設置されています。

横に掲げられた説明文にはつぎのように書かれています。

平和の塔

この「平和の塔」は、かつての数次にわたる戦争、戦災、引き揚げ、原爆被爆などの惨禍の中で亡くなられた方々の霊をまつり、平和への誓いをこめて、多くの市民及び市民団体の協力のもとに、昭和48年に設立されました。
中央の球体は諸霊の安らぎと平和を表し、三本の柱は永遠と荘厳、そして平和を守る市民一人一人の願いを象徴しています。

調布市』





このような趣旨の議会の議決による非核平和都市宣言は、その内容から、民間企業に例えれば、「経営方針」や「行動規範」などに相当する、組織における最上級の規程・規範のひとつのはずです。

そしてこの非核平和都市宣言に約10年先行して、市の平和に関する考え方のシンボルとして設立された、調布市役所前の『平和の塔』は、その説明文において、とくに、「平和への誓い」をこめて「多くの市民及び市民団体の協力のもと」設立されたという点が注目されます。

つまり、昭和58年の調布市非核平和都市宣言調布市議会の議決に基づくものであるという意味で、この宣言は調布市の主権者たる市民の民意に基づくものでありますが、同時に、それは、約10年先行する、『平和の塔』という像の設置において行政庁たると、多くの市民及び市民団体の、平和への誓いをこめた協力により設立されたという意味でも、主権者たる多くの調布市民の民意に基づいています。

このような国内・市内の長年にわたる歴史を踏まえた非核平和都市宣言や『平和の塔』の趣旨・目的やその精神が、行政庁たる調布市の一時の判断によって軽々しく扱われてよいはずはありません。

そのような経緯・歴史のある宣言に明確に「平和憲法の精神」と書かれているにもかかわらず、行政部門たる市役所の一部門が、それに反する行政処分を行うことが許されるのでしょうか。労働法的に考えて、服務規律(指揮命令への違反)の問題とならないのでしょうか。

わが国の国政は、国民から選ばれた国会議員から内閣が選ばれ、その内閣が行政をコントロールするという、イギリス型の間接民主主義をとるのに対して、地方自治においては、地方議会も地方の長も地域の住民の投票で選ばれる、アメリカ型の直接民主主義の形をとります。

このような地方自治の制度においては、国政以上に、長と議会は相互にチェックし合う、鋭い緊張関係に立つはずです。

まず、調布市議会が議決した「調布市非核平和都市宣言」が存在するにもかかわらず、その内容の一義的な文言にあえて反するような行政処分を調布市や調布市長が行ってよいとはとても思えません。

調布市のなかのある部門が暴走したのだとしたら、その部署を監督する上位の部署や、市長の監督責任が問われる事態です。

そして、もし市長自らがその決定に同意し、決済をしていたのであれば、行政たる市をチェックする立場にある市議会が、市役所および市長の責任を追及すべきです。

(もし万が一、調布市や市議会がこれらの問題を漫然と放置するのであれば、住民は、住民監査請求(地方自治法242条)を監査委員に対して求め、さらに住民訴訟(同法242条の2)を裁判所に提起することができます。)

そのため、どうしても調布市が行政府たる市として、「政治的に中立でない市民活動は後援しない」という意向なのであれば、まずは市議会に打診し、市議会において調布市非核平和都市宣言の廃止を決議してもらい、そのうえで、「調布九条の会」への後援取消などの行政処分等を、正々堂々と行うべきであると考えます。

(その際には、同時に、もはや現在の調布市の市民の民意に沿わないとして、調布市役所前の『平和の塔』廃止・撤去すべきでしょう。)

そのようなプロセスを経ない後援取消は、いわば「裏口入学」のたぐいのものであって、違法・不当なものであると思われます。

ただし、うえの、「7.平和主義」の部分でふれたとおり、わが国の平和主義は、憲法9条、憲法前文第2段、憲法13条などの憲法上の条文に基づくものであり、また、政治家、公務員は憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負うので、平和主義を否定することになる、「調布市非核平和都市宣言」の廃止は、現実的に可能かどうかは疑問が残ります。

政府・与党は早ければ2016年にも憲法改正のための発議(憲法96条・国民投票法)などの改正手続きを開始し、憲法を何回かに分けて全面的な改正を行う予定であるそうです。

ですので、少なくとも現行の憲法9条の部分の改正がなされるまでの数年間は、この調布市の手続きはペンディングとなるのが、現実的な流れではないかと思われます。

9.結論
結論として繰り返し申し上げるならば、調布市は、和泉佐野市民会館事件判決(最高裁平成7年3月7日判決)の趣旨に照らし、集会の自由、表現の自由の重要性に鑑みて、公民館の市民の利用や、市民活動の後援については、国民・市民の生命、身体、財産、公共の安全が、明らかに差し迫った程度の危険の発生が「具体的」に予見されるような例外的な場合以外は、たとえそれが革新派のものであっても、あるいは保守派のものであっても、国民・市民の、市民活動の集会の自由や表現の自由を尊重すべきであると考えます。

■参考
・芦部信喜『憲法[第3版]』195頁、255頁など
・野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法Ⅰ[第4版]』352頁、234頁など
・川岸令和「集会の自由と市民会館の使用不許可‐和泉佐野市民会館事件」『憲法判例百選Ⅰ[第6版]』
・青井未帆「公務員の『政治的行為』と刑罰‐猿払事件上告審」『憲法判例百選Ⅰ[第6版]』
・長谷部恭男「公務員による政党機関紙の配布‐堀越事件」『憲法判例百選Ⅰ[第6版]』
・大石眞「神道式地鎮祭と政教分離の原則‐津地鎮祭事件」『憲法判例百選Ⅰ[第6版]』
・晴山一穂・佐伯祐二・榊原秀訓・石村修・清水敏・阿部浩己『欧米諸国の「公務員の政治活動の自由」』
・池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題5』192頁

*私のかつてのブログ記事もご参照いただけますと、幸いです。
・公民館等の使用不許可と集会・表現の自由/泉佐野市民会館事件判決
・「調布映画祭2015」にて『永遠の0』が上映/市施設での「政治的に中立」とは何か
・自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法前文~憲法24条まで)
・自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法25条~憲法102条まで)

憲法 第六版



憲法1 第5版



憲法判例百選1 第6版 (別冊ジュリスト 217)



未完の憲法



いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味



知らないと恥をかく世界の大問題5どうする世界のリーダー?~新たな東西冷戦~ (角川SSC新書)





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