自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法25条~憲法102条まで) | なか2656のブログ

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ある会社の社員が、法律などをできるだけわかりやすく書いたブログです

このブログ記事では、前回にひきつづいて、自民党憲法改正草案について書いており、このブログ記事は、憲法25条から憲法102条までについて書いています。

前回の、憲法前文から憲法24条までについては、こちらをご参照ください。
・自民党憲法改正草案を読んでみた(憲法前文~憲法24条まで)
・自民党憲法改正草案|自民党サイト(PDF)

自民党憲法改正草案
12.生存権
第25条(生存権等)
1 全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、国民生活のあらゆる側面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


草案25条2項は、客体のところに、「国民」という2文字を付けたし、「国民生活」としました。
この点で想定されるのは、外国人、とくに永住外国人の人々などの生存権、とくに生活保護などが問題となると思われます。

大分市の永住外国人の方が生活保護の受給資格を争った訴訟の最高裁判決が本年の夏に出されました(大分外国人生活保護訴訟・最高裁平成26年7月18日判決)。

この最高裁判決は、生活保護法が保護の対象とする「国民」とは日本国民のことであることを示した一方で、現在、厚労省の通達がでているので、従来どおり、その通達に基づいて、自治体は行政措置として永住外国人等に対して生活保護法に準じ保護を行なうことはあきらかであると判断しました。

しかし、この最高裁判決の後半部分はあくまでも厚労省の通達のみに立脚しているだけですので、政府・与党がこの通達を取消したり、生活保護法などの法律を改正したり、あるいは草案にあるように、憲法を改正すれば、当然、その前提を失います。

現在、わが国は1000兆円の負債を抱えている状態であり、消費税を増税しながら国民に対する社会保障を削減しています。とはいえ、安倍政権の政策をみていると、今後、ますます外国人の人々が日本に来ることを大前提として想定しているようです。バランスがとても難しい問題だと思います。

*大分の外国人の生活保護訴訟判決については、こちらをご参照ください。
・最高裁:大分外国人生活保護訴訟(最高裁平成26年7月18日判決)について

13.新しい人権
第25条の2(環境保全の責務)

 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。

第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。

第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。


新しい人権として、草案は、「環境保全の責務」「在外国民の保護」「犯罪被害者等への配慮」を創設しました。

この新しい人権の条文の置きかたにも法的なセンスの無さを感じます。新しい人権であれば、まずは13条のうしろな気がします。「在外国民の保護」は条文の性質上、9条のうしろな気がします。「犯罪被害者等への配慮」は刑事事件の手続きに関する31条以下であると思われます。

また、これらの新しい人権を用意し、さらにうえであげた個人情報取扱の条文は用意しつつ、肝心の「プライバシー権」に関する条文を用意しなかったのは非常に謎です。新しい人権といえば、プライバシー権「自己決定権」あたりが一番重要だと思うのですが。(もっとも、これらの権利や環境権などは、現在も憲法13条の幸福追求権から当然に導きだされるとされています。)

草案25条の2の「環境保全の責務」に関しては、国民の人権としてではなく、あくまでも国家の側の責務として規定されています。また、「国民と協力して」という文言があることから、国民にも協力する義務があることになり、たとえば国が地域の開発などを行なう際に、地域の地権者などはこの25条の2に基づいて協力する義務を負うことになるのではないかと思われます。

現在、沖縄県では国が辺野古に強制的に基地を移転しようとし、反対する地元の国民に対して海上保安庁の職員らが暴力をふるう事件が連日のように続発しています。そのような場面において、この草案25条の2を根拠として、海上保安庁や沖縄防衛局などが、国民に対してより強力な実力を行使してしまうのではないかと憂慮されます。

第25条の3の「在外国民の保護」の規定については、草案9条とセットで、国防軍が海外に派兵するための根拠条文になると思われます。

14.教育に関する権利及び義務等
第26条(教育に関する権利及び義務等)

3 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。


憲法26条は、国民(とくに子ども)に対して、「教育を受ける権利」を定めています。

この、教育を受ける権利について争われる重要な問題は、教育を受ける権利に応えるべきなのは、もっぱらなのか、あるいは親、教師などの国民なのかという問題です。

つまり、教育内容についてはもっぱら国が関与・決定をする権限を有しているとする考え方(国家教育権説)と、子どもの教育について責任を負うのは、親およびその付託を受けた教師を中心とした国民であり、国は教育の環境整備の任務を負うにとどまるとする考え方(国民教育権説)との対立があります。

この問題は、家永教科書裁判(第一次最高裁平成5年3月16日、第二次昭和57年4月8日、第三次平成5年8月29日)において争点となったほか、旭川学テ事件(最高裁昭和51年5月21日判決)においても争点となりました。

この旭川学テ事件(最高裁昭和51年5月21日判決)において、最高裁は、国家教育権説も国民教育権説のどちらも「極端かつ一方的」であるとして、その折衷的な立場をとるべきであるとしました。

つまり、教師に一定の範囲で教育の自由が認められると同時に、国も一定の範囲で教育内容を決定する権能を有するとします。その際、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、たとえば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育をほどこすことを強いるようなことは憲法26条、13条から許されないとしました。

この点、学説は、は教科、授業時間等の教育の大綱を決定することはできるが、国の教育内容への過度な介入は教育の自主性を害し許されないとしています(芦部信喜『憲法[第3版]』249頁)。

ところが、この草案26条3項は、国が教育環境の整備を行なうとしています。ただの教育環境の整備なら問題ないと思いますが、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入であれば大問題でしょう。たとえば、第二次大戦におけるカミカゼ特攻隊による若者の戦死を必要以上に賛美して、「国が何をしてくれるかでなく、君達が国に何ができるかを考えなさい」として「滅私奉公」「七生報国」といった趣旨の教育をしたら大問題でしょう。

15.勤労者の団結権等
第28条(勤労者の団結権等)

公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。


草案28条2項は、公務員の労働法上の権利などの人権の制約の根拠を「全体の奉仕者」(現行憲法15条2項)としています。たしかに古い判例などはこのような考え方をとっていましたが、全逓東京中郵事件判決(最高裁昭和41年10月26日判決)は、この考え方を放棄し、「国民全体の利益の保障」を根拠としました。そしてそれを受けて、学説上は、公務員の人権制約の根拠は、「憲法が公務員関係の存在と自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること(15条、73条4号等)」に求めることが通説とされています(芦部信喜「憲法 第3版」104頁)。

そのような意味でも、この部分は自民党の国会議員の先生方の著しい勉強不足を感じます。新聞などによると、安倍総理は国会答弁で、野党の議員から、「安倍総理は芦部信喜先生をご存じですか?」と質問されたとき、安倍総理は、「そのような人物は知らない」と回答したそうです。

安倍総理は成蹊大学法学部出身のはずですが、吉祥寺で一体何を勉強したのだろうかと非常に疑問です。この点は、ネット上でみていても、普段は安倍総理を支持している人々からも、「腐ったプロ野球界を俺が変えてやるぜ!と常々言っている人物が、王・長島を知らないと公言しているようなものだ」という嘆きの声もありました。

話がそれましたが、草案第28条は、「全体の奉仕者」の部分が疑問であり、また、労働権の制約を憲法上明文化するものですが、これもあえて憲法上明文化するほどのことなのだろうかと思います。

公務員や官僚を悪者に仕立てて、彼らをスケープゴートにして、マスコミや国民を煽るのは政治家の古くからのいつもの手口です。しかし公務員も労働者であり、国民のひとりです。

かりにマスコミや政治家などが公務員をばんばん叩きつづけて、草案が憲法改正で憲法となったとして、今後、それでも優秀な人材が、魅力的な民間企業を断って、キャリア官僚や公務員になってくれるのかどうか疑問です。わが国は伝統的に、政治家がどうしようもない反面、官僚がしっかりしているので、どうにか国がなりたっている面が大いにあると思うのですが。

*草案28条と最近の堀越事件判決について別のブログ記事で考えてみました。
・自民党憲法改正草案28条の公務員の労働基本権/堀越事件・猿払事件

16.財産権
第29条(財産権)

2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。

財産権について定める29条ですが、「公益及び公の秩序」のところは草案13条、21条などと同じだと思います。

草案29条で異様なのは、後段の、「知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。」でしょう。

これは、自民党の改正理由などによると、「特許権等の保護が過剰になり、かえって経済活動の妨げにならないよう配慮するため」とのことのようです。

しかしこれは、言い方は悪いですが、中国や韓国などの諸国のように、他国の特許や著作権などを勝手にぱくって、ばったもんを作って廉価版を販売して儲けましょうということなのでしょうか?それを国の最高法規たる憲法で明文化したうえで、国家レベルで推奨するということなのでしょうか?

これはちょっと文明国家としてあまりにも志が低いのではないでしょうか。中国や韓国に知的財産をぱくられているからといって、こちらがそれに迎合してマナーや民度のレベルを下げる必要性はまったくないような気がします。むしろ逆に、そのような海外からのぱくりと断固闘っているバンダイなどの知的財産が命の企業を、国は全力で応援すべきなのではないでしょうか。それが国策としてクールジャパン戦略を掲げるわが国のあるべき姿なのではないでしょうか。

*補足・「フェアユース」
なお、アメリカの著作権法には、「フェアユース」(=公正な使用)という概念に基づく条文があります。これはアメリカの判例をもとに1970年代に条文化された、比較的最近の考え方です。フェアユースとは、4つの要件に該当すると、著作権の規定にかかわらず、著作権の侵害とならないとされるものです。

利用者がフェアユースと判断して行なった行為の適法性の判断は、事後的に裁判所の判断へ委ねられることになります。そのような意味で、ある意味非常に危なっかしいトラブルメイカーな概念であり、採用する国々もあるようですが、日本は文科省の審議会が検討をするものの、正式な採用には未だに至っていないようです。

著作権ですらこうですから、もっと利害関係が激烈なものとなる、製薬会社や重工業メーカーなどの特許権などにおいて、その知的財産権の権利の重さを軽くするということは、なかなかそのような当事者の方々の理解が得られないものと思われます。


17.選挙に関する事項
第47条(選挙に関する事項)

 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律で定める。この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない。


草案47条は、選挙の条文に、「各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定め」るというすさまじい一文をおいています。

一言でいえば、今現在の選挙制度を自民党が変えたくないので、「総合的に勘案」という何とでも解釈できる一文をいれたのでしょう。

現行憲法においては、憲法15条2項が、「普通選挙」であることを定め、男女平等一人一票であることを定めています。その背景には、当然、憲法14条法の下の平等の原則があります。

そして、近年、選挙の一票の格差に関する訴訟も、参議院選挙においても2014年11月27日に、4.77倍の格差に対して違憲状態とする事情判決がだされました。衆議院について、2013年11月20日に最高裁大法廷判決は、2.43倍の格差について違憲状態とする事情判決を出しました。

学説上、参議院は地域代表的な要素も加味されるべきといわれることもあるのですが、やはり憲法14条のことを考えると、2倍の格差を超えてしまうと違憲というのが一般的な考え方のようです。

ところが、自民党の草案47条は、「人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案」することによって、これまでの判例の違憲状態の判決の積み重ねや、憲法15条2項、14条による「一人一票」という大原則をふっとばそうという、とんでもない暴挙です。

日本は敗戦後の1946年に初めて普通選挙が実施されました。そしてその選挙を経て現在の憲法である日本国憲法ができた経緯があります。それまでの明治・大正期は、ごく一部の富裕層の男性しか選挙権がない時代が続いていました。自民党の草案47条は、日本を明治・大正期に逆戻りさせようという時代に逆行するとんでもない暴挙です。

そして、自民党の草案は15条3項で「普通選挙」という考え方を残し、14条では平等原則も維持しているのですから、この草案47条の一人一票の原則を放棄する考え方は、草案15条3項や草案14条と相反する、自己矛盾です。

18.政党
第64条の2(政党)

1 国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない。
2 政党の政治活動の自由は、保障する。
3 前二項に定めるもののほか、政党に関する事項は、法律で定める。


国会について定める第四章の最後に、草案は第64条の2として「政党」という興味深い条文を置きました。

話がやや横道に逸れますが、憲法で政党を勉強すると、「トリーペルの4類型」というものを勉強します。それによると、各国の憲法において、政党の立ち位置は、

敵視→無視→承認→憲法的編入

という4段階に進むのだそうです。
現在のわが国は、憲法21条1項が「結社」として保障していることから、「承認」の段階です。一方、たとえばドイツは、「憲法的編入」の段階です。ドイツはナチズムに対する反省から自由主義、民主主義に反する表現や結社は認めないと憲法で明文化したうえで、政党を憲法に組み入れています(いわゆる「戦う民主主義」)。

しかし草案64条の2の条文をみると、「公正」「健全」という用語以外は具体的な要件となりうるような文言がなく、それ以外は「法律」で定めるというスキームとなっています。これでは自民党・公明党が気に食わない政党は、政党として認められないであるとか、政党として認められたとしても著しくその勢力を弱められるなどといった事態が予想されます。

この自民党の政党条項や、あるいは最近ホットなテーマである、ヘイトスピーチの規制のための規制立法の問題などもそうなのですが、ヨーロッパにそういった法律がある、ヨーロッパからなんで日本はやってないんだ、日本は遅れているとのヨーロッパからの批判がある、だから日本もさっさとやろうという、よくある世論があります。

しかしヨーロッパと日本では、憲法や法律など、国や法令の仕組みが全然ちがいます。うえであげたように、ドイツやフランスなどは、「戦う民主主義」による憲法を採用し、それをベースとした法律や刑法を持ち、さらに、憲法裁判所という、日本の裁判所とは異なり、事件が起こる前に法律などを事前にチェックする裁判所を持っています。そのような何重もの仕組みをしたうえで、国家の手による人権保障という「国家による自由」を行なおうとしています。

一方、戦後の日本はアメリカをまねて、表現の自由や結社の自由などはできるだけ保障しようとするスタンスです。その背後には、「言論の自由市場論」があります。そして日本の裁判所はヨーロッパのような憲法裁判所のような抽象的裁判所の機能は持っていません。良くも悪くもわが国は極めてシンプルな制度設計の国家です。このようなわが国では人権は「国家からの自由」が希求されます。そのようなわが国で、きちんとした制度的な準備もなしに、なし崩し的に政党やヘイトスピーチ規制に関する立法などを行なっても、泥縄式となりうまくいかないでしょう。うまくいかないだけでなく、立法のやりかた次第では、それは違憲のおそれすらあると思われます。つまり、憲法という土台の部分ができていないのに、無理やり法律という家屋を建てようとしても、無理が生じるおそれがあります。

*ヘイトスピーチ規制立法の問題についてはこちらをご参照ください。
・京都朝鮮学園事件判決とヘイトスピーチ規制立法について

19.地方自治の本旨
第92条(地方自治の本旨)

1 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。


地方自治の本旨については、従来から、①住民自治②団体自治の二つの面があるとされてきました。

住民自治とは、地方自治が住民の意思に基づいて行なわれるという民主主義的要素。
団体自治とは、地方自治が国から独立した団体に委ねられ、団体自らの意思と責任の下でなされるという自由主義的・地方分権的要素。

とされています。草案92条を読むと、住民自治の面は強調されているように読めますが、団体自治の部分はカットされているように読めます。

また、草案第95条(地方自治体の権能)は、地方自治体の権能について、現行憲法では、行政執行権能、財産管理が認められてきたのにこれをカットし、「事務の処理」しか認めないこととしました。つまり、地方の自治体は、中央政府の指示した通りに事務だけやっていろ、というのが自民党・公明党の考えのようです。

自民党が、地方分権ではなく、中央集権的なわが国のあり方を描いていることが分かります。しかし、選挙で選ばれた国会議員や、内閣や首相も判断を誤ることはあります。そのために世界各国の政治形態においては、三権分立などの権力分立がとられています。中央と地方との権力分立もそのひとつの安全弁です。

2014年11月の沖縄県知事選は、辺野古基地建設問題をめぐり、中央政府の支持する仲井間氏と、地元市民の支持を受けた翁長氏との争いになり、翁長氏が大差で勝利しました。このような沖縄県において、住民自治は認めるが、団体自治は認めないという自民党の主張は認容できないのではないでしょうか。

20.緊急事態
第九章 緊急事態
第98条(緊急事態の宣言)

1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

この緊急事態とは、一般に「国家緊急権」と呼ばれるものです。戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止するなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図るものです。

憲法に導入されている諸国をみると、軍の条項とセットであるのが一般的であるようです。ですので、もしわが国が憲法改正を行ない、国防軍を導入するというのであれば、この緊急事態の条項をいれるのもひとつのプランなのかもしれません。

しかし、この自民党の草案の緊急事態の条文を読むと、98条で、「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」と規定しています。しかしここまでしっかりと発生しそうな緊急事態を列挙しながら、さらに「その他法律で定める緊急事態」というバスケット条項を用意している理由な何なんでしょうか。

国家緊急権は憲法を停止させて国家を独占し、国民の人権を制約をするものですので、権力者による濫用の危険が問題になります。一番よく出される悪しき例は、ナチス・ドイツのヒトラーでしょう。ヒトラーは、ワイマール憲法下において、14年間で実に250回国家緊急権を発動したとされています。日本でも、明治憲法下において、厳戒令が何度か発動されています。

このように、国家緊急権は権力者による濫用の危険性に留意する必要があります。

■緊急事態条項については、こちらもご参照ください。
・自民党憲法改正草案の緊急事態条項について考える

21.最高法規
第十一章 最高法規
第101条(憲法の最高法規性等)

1 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。


第102条(憲法尊重擁護義務)
1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。


草案の最高法規の部分は、現行憲法がまず憲法97条で、基本的人権を再確認している条文を驚くべきことに、すべて削除してしまいました。

現行憲法97条は、基本的人権は人類の多年の努力の成果であり、永久の権利として国民に信託されたものであることを憲法が保障するものであることを示す極めて重要な条文です。つまりもっと言えば、この条文は、憲法が、わが国においては、個人の尊重や基本的人権が目的であり、国家はその手段であることを再確認している条文であるといえます。

その再確認のうえで、現行憲法は次の条文で、憲法の最高法規性を確認し、最後に、公務員などの憲法尊重擁護義務に進むのは、とても理にかなっています。

ところが、自民党の草案が現行憲法97条をまるまる削除してしまったのは、ただ単に国会議員の先生方が著しく不勉強だったのか、あるいは、おそらく故意に、国民に、個人の尊重や基本的人権が大事だということを忘れてもらって、逆に、カミカゼ特攻隊のように、「国が君達に何をしてくれるかではなく、君が国のために何ができるかを考えろ」という方向に国民を持っていきたいのだろうと思われます。(「国のため」といいつつ、実際には自民党・公明党の国会議員の先生方の私利私欲のためにですが。)

また、自民党の草案102条憲法尊重擁護義務も、いかにも自民党の国会議員の先生方が作ったらしい条文となっています。まず1項で、この義務の名宛人がなぜか「国民」となっていて、完全に意味不明です。

元総務省官僚で自民党の憲法改正推進本部事務局長であった、磯崎陽輔参議院議員は、ツイッターで、「私が学生時代に勉強した際には、立憲主義などという言葉はありませんでした。昔からある学説なのでしょうか?」という趣旨のとんでもない発言をなさっていたことが話題となりました。


安倍首相以下、自民党は勉強せず、逆に自らの無知を誇示する人ほど出世する社会なのでしょうか。

磯崎陽輔議員は、ネットで調べてみると、東京大学法学部1982年に卒業し、自治省(現在の総務省)のキャリア官僚を経て政治家になった人物とされています。

この時期の東大法学部の憲法は、わが国の憲法学の第一人者である、芦部信喜先生が教鞭をとっていた時代(1963年~1984年)です。学生時代の磯崎氏は、東大の憲法の授業中は昼寝でもしていたのでしょうか?

あるいは、かりに授業中寝ていたとしても、どのような憲法のテキストにも、立憲主義に関する説明はなされています。

時系列的にいうと、立憲主義18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争などにおいてうちたてられ、その後、19世紀以降、世界各国に広まったものです。その先駆けとなる、「法の支配」という考え方はさらに古く、13世紀のイングランドの「マグナカルタ」などにすでに現れているとされています。なお、わが国の7世紀十七条憲法においても、たとえば7条は、「任務を超えて権限を濫用してはならない」という、権力者の権力に歯止めをかける趣旨の条文が存在します。

ですので、磯崎議員が18世紀以前に憲法を勉強したのでない限り、「学生時代の講義で聴いたことがありません」という事態が発生することはありえません

また、磯崎議員は旧・自治省のキャリア官僚であったのですが、一般論として、自治省であれば、地方自治などが所管となると思われ、地方自治法、全国の各種の条例、各種の行政法、地方公務員法、人事院規則などを業務上、日々にらめっこするはずです。そしてそれらの法令を理解するためには、そのバックボーンである憲法のテキストを読まないはずはありません。学生自体に勉強しなかったとしても、職務上、嫌でも勉強しないはずがないのです。

そのような意味で、磯崎議員のこのツイッター上の発言は、あまりにもひどいものであって、愕然としてしまいます。

話が大きく逸れてしまったのですが、さらに、草案102条2項は、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」となっていますが、なぜか、現行憲法で規定されている、「天皇又は摂政」削除されています。

草案1条は天皇は「元首」と規定しています。その一方で、この102条では「天皇又は摂政」を憲法尊重擁護義務から削除しました。

これでは、天皇・摂政が、元首としての権能をもちながらも超法規的な存在となってしまうことになりかねません。自民党・公明党の国会議員や官僚などが、私利私欲により天皇や摂政を盾に国家を暴走させようとした場合に、その濫用に歯止めがきかないということになりかねません。


*補足・「押しつけ憲法論」について
しばしば、安倍総理や石原慎太郎さんのような方々は、現在の憲法はアメリカなどから押し付けられたものだから、そもそも正当性がなく守る意味がないといった持論を展開します。

1945年8月(昭和20年)、第二次大戦において日本は連合軍に無条件降伏し、ポツダム宣言を受諾しました。ポツダム宣言はさまざまな条件を定めるものでしたが、憲法との関係では、とくに、国民主権を求めていたことが問題となりました。

このポツダム宣言を受けて、日本側は、同年10月、憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置し、明治憲法(大日本帝国憲法)を下敷きにして、できるだけ明治憲法の内容を存続させる方向で憲法改正案(松本試案)を準備しました。しかし、これは1946年2月、新聞紙のスクープにより、とん挫します。

そのスクープの新聞記事を読み、その旧態依然とした内容に愕然としたマッカーサーが部下達に命じて作らせたのが、いわゆるマッカーサー・ノート(マッカーサー草案)です。

よく安倍総理や石原慎太郎氏等は、この草案を念頭に現行憲法はGHQの素人がたった8日間で作成したものだと批判します。とくにベネタ・シロタ氏の参画を、「若い女の子が作った憲法などけしからん」と男女差別な批判すら平気でします。

しかしシロタ氏は飛び級で大学に入り、6つの言語を習得した天才です。立憲主義すらろくに理解できない日本の与党の多くの国会議員よりも、よほど優秀で聡明なのではないでしょうか。

また、マッカーサー草案作成の過程においては、本人達の回顧録(幣原喜重郎『外交五十年』・ダグラス・マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録』)などによると、当時の幣原喜重郎首相自身が戦争放棄・軍事施設放棄をマッカーサーに打診したとされています。

マッカーサー・ノートは幣原首相との会談を踏まえて作成されたことになります。この同年2月のマッカーサー・ノートをもとに、個別の条文の具体的な審議を行ったのは日本の国会です。

なお、明治憲法と違って、現行憲法が法律の条文なのにもかかわらず、とても読みやすくなっているのは、基本的に”五、七、五”の文体に整えられているからであり、その文体には、作家で参議院議員の山本有三氏の尽力があったとされています。

また、1946年4月にわが国初の女性に参政権を認める普通選挙が行われ、吉田内閣が同年5月に発足しました。吉田内閣は、明治憲法73条の規定に従い、憲法改正草案を衆議院と貴族院に提出し、それぞれの圧倒的賛成により可決されました。そして枢密院の審議を経て同年11月3日に、「日本国憲法」として公布されました。

加えて、新しい憲法の改正案を政府が公表した当時(1946年5月27日)に毎日新聞が行なった有権者の世論調査によると、当時の国民は、象徴天皇制に85%、戦争放棄に70%が賛成であり、新しい憲法を多くの国民が支持していたことが窺われます。

このように、現行憲法はGHQからの押しつけというよりは、GHQと日本との合作だったのではないかと思われます。

昭和22年(1947年)5月3日日本国憲法施行の日、風速10メートルを超す強い風雨のなか、皇居前はその施行を祝う1万人を超える国民の人波で埋まったそうです。

安倍さんや石原さん達はこのような事実を前にしても、「押しつけ憲法」だと言い放つのでしょうか。

■文献
・小林節・伊藤真「自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす」
・伊藤真「赤ペンチェック自民党憲法改正草案」
・芦部信喜「憲法 第五版」 
・野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法Ⅰ・Ⅱ[第4版]』
・晴山一穂「政治主導論と政官関係の改革構想」『改憲を問う』154頁
・幣原喜重郎『外交五十年』
・ダグラス・マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録』
・伊藤真『憲法問題』
・木村草太『憲法の創造力』30頁
・「日本国憲法をもう一度」『サライ』2014年12月号

自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!



増補版 赤ペンチェック 自民党憲法改正草案



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憲法 第六版



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いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味





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