公民館等の使用不許可と集会・表現の自由/泉佐野市民会館事件判決 | なか2656のブログ

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1.はじめに
本日、久しぶりに調布市の中央図書館に行ったところ、8月ということで、窓口カウンターの前に戦争に関連する書籍がたくさん並んでいました。よくみるとリベラルっぽいタイトルの本から産経新聞編集の本までバラエティに富んでいて、司書の方々も色々と考えておられるのだなと思いました。また、8月末に歴史学者の方による戦争に関する講演会が市の文化会館で開催されるとのちらしが置かれていたので、一枚頂いてきました。


2.公民館の使用不許可
近年は何となく息苦しい世の中ですが、地元の図書館や公民館等が昔ながらに平常運転をしているのは、一市民としてはありがたい思いです。最近の新聞記事を読んでいると、全国の自治体において、たとえば「平和について考える」等の市民の活動について、従来は自治体の後援が得られたのに得られなくなったであるとか、あるいはもっと端的に、そのような市民活動や表現活動に対して、公民館の使用許可の申請をしたが許可が下りなかったといった記事が結構あるのがとても気になります。

最近の例として、埼玉新聞の7月8日付の記事によると、「さいたま市大宮区三橋公民館が、毎月発行する公民館だより7月号の俳句コーナーに、公民館で活動するサークルが選んだ憲法9条を題材にした市民の作品掲載を拒否した」そうです。そして「市に寄せられた意見が7日までに104件に上ったことが8日、市教委への取材で分かった。大多数が批判や苦情だったという。」というのが意見を寄せた市民の概ねの反応のようです。

埼玉新聞:「九条守れ」俳句掲載拒否 市に意見100件超、大多数が批判や苦情

一方、ある意味興味深いのは、市の教育委員会の生涯学習総合センターがこの作品掲載拒否の理由を「世論が二分されているものは、一方の意見だけを載せることはできない。公民館の考えだと誤解されてしまう可能性もある」と説明していることです。

この“公民館におけるこのような市民活動や表現の展示を認めてしまうと公民館の政治的中立性を損なうので使用を認めることはできない”といった趣旨の使用拒否の理由は最近新聞記事などで最近とてもよく目にするように思われ、また、一見すると納得感があるようにも思われます。

3.公務員の政治的活動の自由の問題
たしかに公務員の方々は政治的活動の自由が制約されています(国家公務員法102条、地方公務員法36条、猿払事件・最高裁昭和49年11月6日判決)。それはわが国が民主主義の国であって、「政党政治の下では、行政の中立性が保たれてはじめて公務員関係の自律性が確保され、行政の継続性・安定性が維持されるので、一定の政治活動を制限することも許される」からであると説明されています。また、公務員という制度の根拠と、公務員の政治活動の自由等の制約の根拠は、わが国の憲法が公務員制度をその構成要素として規定いることから導かれると説明されています。そして憲法は、統治機構(=国家)は国民の人権という目的を達成するための手段であると規定します。国民の基本的人権には当然のことながら表現の自由(とくに政治的表現の自由など)が含まれます(憲法21条)。

そのため、たとえば世の中で意見の割れる社会問題につき公民館等に務める公務員の方々が政治的に一方的な展示をすることは公務員の政治的中立性を害し大問題となるでしょうが、市民のサークル活動の人たちが公民館で社会的・政治的な問題につき討論をしたり、表現活動を行なうことが法令上問題となるとは思えません。市民には政治的な表現の自由があり、政治的中立性は問題となりませんから、その表現が仮にどちらかに偏ったとしても、それは市民の責任でないし、その場所を提供する公民館で働く公務員の人々の責任でもありません。

4.思想の自由市場論
ドイツは、先の大戦におけるユダヤ人虐殺などの反省に立ち、ボン基本法(=憲法)が、たとえば民主主義に反する政治結社は憲法上認めないという「闘う民主主義」という政治制度を採り、その憲法の下にホロコースト否認論などの言論を許さない刑事罰を設けるなど、表現の自由や結社の自由に一定の制限を課しています。

一方、日本の憲法は表現の自由についてできるだけ広い範囲を保障しようとしていますが、その根底には、「思想の自由市場論」という考え方があると思われます。この考え方は、「各人が自己の意見を自由に表明し、競争することによって、真理に到達することができる。」「真理の最善の判定基準は、市場における競争のなかで、みずからを容認させる力をもっているかどうかだ」(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ[第5版]』352頁)というものです。つまり、たとえば大学のゼミのような、お互い対等に言いたいことを言い合える場で、大学生達が多くの自由闊達な意見を出し合って議論をしていけば、より良い結論がだせるだろうという考え方です。

すなわち、この日本の憲法学の「思想の自由市場論」の考え方は、とにかく市民・国民は自分の意見を自由に、競い合うように出すべきだ、というものであって、方向性としては市民に対して「市民は黙ってろ」と言うのでなく、むしろ「もっとしゃべって」と勧める考え方です。

そのような意味で、うえのさいたま市の俳句の件のように、せっかく市民からひとつの表現が提示されたのに、公民館の市職員が「一方の意見だけを載せることはできない。」と拒否する行為は、「両論併記されていないから、黙れ」と言うようなものであって、市民の表現の自由(あるいは集会の自由)の趣旨に180度反するものであるように思われます。(なお、いうまでもなく検閲は憲法が明文で禁止しています(憲法21条2項)。)

5.集会の自由/泉佐野市民会館事件判決(最高裁平7年3月7日判決)
また、集会の自由と公民館の使用不許可の問題については、泉佐野市民会館事件判決(最高裁平7年3月7日判決)という、つぎのような公法上非常に著名な判例があるのですが、“政治的だから許可できない”と言いきってしまう最近の多くの自治体側は、この判決を知らないのか、あるいは十分承知の上で知らないふりをしているのか、正直心配になります。

集会の自由は、表現の自由の一形態として重要な意義を有します。判例も、「現代民主主義社会においては、集会は、国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表明するための有効な手段であるから、憲法21条1項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものである」と指摘しています(成田新法事件・最高裁平成4年7月1日判決)。つまり、集会の自由は個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという自己実現の価値を持つと同時に、相互にそして対外的に意見を表明する手段という意味で民主政に資する社会的な自己統治の価値を持つ重要な権利です。とくに自己統治の価値の側面は、国民自らが政治に参加するために不可欠の前提をなす権利です。

泉佐野市民会館事件判決の事実の概要は、関西新空港建設の反対運動のグループが集会を開こうと泉佐野市の市民会館に使用許可を申請したところ、市側は同グループがいわゆる過激派であることから使用を許可しなかった。そのため、同グループは使用不許可は憲法21条違反である等として訴訟を提起したものです。

最高裁は、結論としては泉佐野市側の主張を認めたのですが、しかし、公民館などの公共施設の使用を不許可とできる条件を集会の自由との兼ね合いから、つぎのとおり非常に厳格に判断しています。

公共施設の設置管理者が、施設の規模・構造・設備等から当該集会の管理に適合しない場合と、利用の希望が競合する場合以外に、当該施設の利用を拒否できるのは、集会の自由の保障の重要性よりも、「集会が開かれることによって人の生命、身体または財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止する」必要性が優越する場合に限られる。そして、この危険性の程度としては、「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されること」が要求される(「明白かつ現在の危険」の法理)。
 また、「施設の管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。


この事件が起きたのは昭和59年で安保闘争の始まりの頃で、原告のグループはいわゆる中核派だったそうであり、裁判所が泉佐野市側の主張を認めたのも、同グループと他の団体とが過激で大規模な暴力沙汰を起こす危険が非常に高かったからであったようです。

つまりこの判例は、ざっくりいえば、“公共施設の使用不許可は、たとえば安保闘争における極左団体間の闘争のようなある意味極限的な、人の生命、身体等の危険を回避する必要性がある場合に限って許され、しかもその危険は、明白かつ現在の危険である必要がある。”としたうえで、さらに、“管理者が正当な理由を説明せずに使用を拒否することは憲法違反のおそれがある”と駄目押ししています。

この判例に照らしても、うえであげたさいたま市の担当者の「世論が二分されているものは、一方の意見だけを載せることはできない。公民館の考えだと誤解されてしまう可能性もある」という説明や、よくある自治体の担当者の“公民館におけるこのような市民活動や表現の展示を認めてしまうと公民館の政治的中立性を損なうので認めることはできない”といった説明は説得力がありません。

国の安全保障の問題に関して国民の意見が割れているのはもちろん事実でしょう。しかしその問題に関して現在の日本で保守派とリベラル派との間で、安保闘争の時代のような血で血を洗うような武力闘争が行なわれているわけではありません。さいたま市大宮区の公民館に憲法9条に関する俳句を1通掲示したら武力闘争が勃発して、人の生命・身体・財産の危険が具体的に発生するとはとても思えません。逆にもし、さいたま市教育委員会の担当者の方が真剣にそのように考えておられるのなら、どちらかというとその豊かな発想力を映画業界等で活かされた方がよいような気もします。

6.平和都市宣言
なお、これは若干余談ですが、ネットで調べてみたところ、何とさいたま市は平成17年12月に「さいたま市平和都市宣言」を発出しているそうです。宣言を読みましたが、簡潔ながらも、先の大戦における戦争の惨禍、被爆、核兵器廃絶、恒久平和への思いを述べたうえで平和都市を宣言する内容であり、多くの自治体の平和都市宣言と同様にシンプルに恒久平和を希求する内容であって、とくに議論が二分するような内容には思えませんでした。

さいたま市:さいたま市平和都市宣言(説明サイト)
さいたま市:さいたま市平和都市宣言(PDF形式:12KB)

そして市の説明のウェブサイトを読むと、『市議会による「平和都市宣言の制定を求める決議」を踏まえ、の関係局部課長で構成する「さいたま市平和推進検討委員会」で宣言の素案を作成し、パブリックコメントによる市民の皆様からのご意見をいただきながら策定しました。』とのことで、この平和都市宣言が民意を踏まえた非常に丁寧な手続きで策定されたことがわかります。つまり、一昔前の平和都市宣言であれば、議会の議決だけで策定するケースもあるのですが(もちろん市民から信託を受けた議会の議決は十分重みがありますが)、さいたま市は、市民‐議会‐市役所の三者の協力という丁寧なステップを踏んでこの宣言を作っています。

そのような意味で、この平和都市宣言は市職員にとっては、普通の市役所内の通知・通達・内規などに比べれば格段に重要度が高い規程・規範であるはずです。また、少なくとも市のウェブサイトには「世論が二分されているので現在この宣言の取り扱いについては議会で審議中です」などとは書かれていません。お役所のことはいまいちよくわからないのですが、平和都市宣言というものは、民間企業に例えれば、「経営理念」であるとか、「行動規範」、「○○に関する基本方針」といったレベル感のものであるように思われます。

そういった重要な市の規範たる平和都市宣言に対して、公民館を管轄する市職員がそんなもの自分は知らんとばかりに従わず、逆に「世論が二分されているものは」などと宣言の趣旨に反するかのような言動をするのは、服務規律(労働義務の履行)の観点から問題であり、それを見逃しているのだとしたら上司や市長達の責任も問われるように思われます。

あるいは、もしかりに平和都市宣言なんて本音としては市役所にとってはただの紙切れなんです、ということであれば、そもそもなぜ平成17年に予算や労力を使い、議会で議決し、市の管理職を集めた委員会を設置し、パブコメで市民から意見を募ってまで平和都市宣言を策定したのかという問題であり、住民監査請求や住民訴訟の対象にすらなりそうな気がします。

また、平和都市宣言のパブリックコメントについてさいたま市に対して熱心に意見を寄せた市民の方々は、今回の公民館の俳句への対応について、がっかりというか、裏切られたと感じた方は多いのではないかと思いました。

7.参考文献
・芦部信喜『憲法[第三版]』193、255頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ[第5版]』352頁
・川岸令和『憲法判例百選Ⅰ[第5版]』178頁

憲法 第六版



憲法1 第5版