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ナン太郎にっき。

ナン太郎の、ナン太郎による、ナン太郎のための、にっき。

“皇帝戦士”ビッグバン・ベイダーが亡くなった。



私がプロレスを観戦するきっかけは、日本人ならマサ斎藤であるが、外国人ならベイダーである。



私が観戦するようになった1990年、ベイダーは前年に長州力を破り第7代IWGPヘビー級王者に君臨。



中でも、“不沈艦”スタン・ハンセンとの東京ドームと福岡国際センターでの同選手権試合は両者譲らない迫力満点の試合だった。



またプロレスデビューしたての北尾光司を子供扱いするなど、まさに無双状態。



8月19日、東京・両国国技館での長州との1年ぶりの選手権試合にリキ・ラリアットの連発の前に初のピンフォールを奪われ王座転落。



1990年はこの日までピンフォール負け(結局、この1回のみ)はなかったが、以前は割とピンフォールを奪われたりしていたことはとても驚いた。



とにかく私が見る限り、ベイダーは最強であるとその戦いぶりからも植え付けられていた。



そして、初の生観戦は必ずベイダーが出場する日にしようと決めていた。



そして1992年5月17日、大阪城国際文化スポーツホールでの新日本プロレス20周年記念興行にベイダーが参戦。



黒地に赤い血管のようなラインが入ったマスクではなく、この当時から晩年まで使用していた網のようなものを付けていた。



そしてなんといってもベイダーといえば甲冑。



掛け声と共に白煙が吹き上がるシーンがとてもすきだったが、なんと甲冑を身につけずに入場。



テレビ中継でも入場シーンがカットされ試合のみ放映されることも多かったため気付かなかったが、とても残念だった。



そして試合はセミファイナルのひとつ前で、プロレス転向したばかりのトニー・ホームとのシングルマッチ。



ホームがボクサー時代に異種格闘技戦で対戦しハンセン戦同様、迫力満点の試合で戦績は1勝1敗の五分。



プロレスはベイダーの土俵であり、ホームにプロレスを教えるような試合展開を期待していたが、10分ちょうどでホームのピンフォール勝ち。



結末はヒップドロップの2発目をかわし、そのまま丸め込んだ。



クラッシャー・バンバン・ビガロとのタッグで第18代IWGPタッグ選手権の王座を獲得していたが、後にスタイナー・ブラザーズへ献上。



その後、WCWからUWFインターナショナル、全日本プロレスそしてNOAHへと戦場を移していった。



その後の活躍を見ると、私が見たベイダーはどう見てもいちばん底だったようだ。



私が観ることができる可能性があった、ベイダー参戦中の新日本プロレス大阪大会の試合はこんな感じであった。



1990年9月7日、大阪府立体育会館:蝶野正洋とのシングルマッチでピンフォール勝ち

1990時10月7日、堺市金岡公園体育館:武藤敬司とのシングルマッチでピンフォール勝ち

1991年1月16日、大阪府立体育会館:ムッシュ・ランボーとのCWA世界ヘビー級選手権試合でピンフォール勝ち

1991年3月10日、泉佐野市民総合体育館:藤波辰爾、長州力、馳浩、佐々木健介、獣神サンダー・ライガー組との10人タッグマッチ(60分3本勝負)に1-2で敗戦(パートナーはスーパー・ストロング・マシン、後藤達俊、ヒロ斎藤、保永昇男)

1991年5月31日、大阪城国際文化スポーツホール:スコット・ノートンとのシングルマッチにリングアウト負け



こう考えると、もう私が思い描くベイダーの強さを感じることはできなかったのかもしれない。



しかし晩年、UWFインターナショナルや全日本プロレスに登場した際のベイダーは明らかに“あの頃”のものであった。



そう思えたので、私としてはとても嬉しかった。



ベイダーが生前のラストマッチになったのが、エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)第二競技場だったことも興味深い。



藤波、長州と組んで藤原喜明、越中詩郎、佐野巧真組と対戦(藤波の飛龍裸絞めで佐野からギブアップ勝ち)。



ラストマッチも観戦できなかったこともそうだが、本当にもうベイダーの勇姿を見ることはできないのはかえすがえす残念である。



でも私の中には、いつまでも強いベイダーがいる。



合掌