グレッグ,J..2023.『もしニーチェがイッカクだったなら?』.柏書房 | 杏下庵

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知性は生物学的な事実ではない。ヒトの知性や行動がすべての動物のなかで例外であるという考えに、科学的根拠はまったくない。(18)ヒトの道徳観はむしろ、文化による編集を受ける、継承された一連の規則といったほうがよさそうだ。そうだとしたら、僕たちの道徳を実践する能力は、ほかの認知的形質と同じように進化してきたことになる。 (122)人類が実行するたぐいの暴力や、それを正当化すると卜の道徳的推論と比べれば色あせて見える。 (141)ヒトは複雑な道徳的思考の能力を発揮して、ほかのどんな動物にとっても規範上の問題にならないことを問題とみなし、社会からの疎外、犯罪化、処刑、さらにはジェノサイドさえも正当化してきた。 (146)意識が昆虫にもある可能性はきわめて高いことを示している。もしそうなら、意識は僕たちの進化の歴史のなかのごく初期の段階で獲得された形質に違いない。 (164)ホモ・サピエンスはほかの種と比べ、平均してより多くの快感を経験しているとは言えない。言語、数学、科学などの能力が僕たちにどれだけの恩恵をもたらしたとしても、僕の生活が、僕のニワトリの生活よりも快感に満ちていることを裏づける証拠は皆無だ。 (237)僕とすべての動物との関係を規定する、斉一的で矛盾のない道徳的枠組みは存在しない。僕が従っている複数の信念は、ときに真っ向から対立し、ときに偽善的だ。(248)意識とは主観的経験であり、動物の意思決定と行動に役立っている。動物は時間の経過を多少なりとも理解し、将来の計画を立てる。動物は死について何かを知っている。動物はものごとの関連について、おそらくなぜには無関心だが、何がいつ起こるかの情報を収集し、この世界のしくみを学習する。 (249)人間である以上、人間の主観から抜け出すことはできない。しかし、動物が意識やさらに意志を持っていない証拠はない。道徳も人間の視点から見ているだけだろう。人間中心主義は、独我論に陥る。しかし、人間も他の生物を食べなければ生きていけない。人類存続のための生物観が求められるのであろう。