岸惠子 著「わりなき恋」を読んで ~熟年・初老の離婚~ について思う1 | 名古屋市,岡崎市の離婚・不倫慰謝料に強い弁護士のブログ|愛知県

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代表弁護士 浅野了一

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岸惠子
(きしけいこ、1932年8月11日生)は、女優・文筆家。
岸恵子の表記もある。身長161cm。体重47㎏。舞プロモーション所属。


題しらず
心をぞ わりなき物と 思ひぬる 見るものからや 恋しかるべき
(古今和歌集685)


三省堂 大辞林
わりな・い【理無い】
(形)[文]ク わりな・し
〔「理(ことわり)無し」の意から〕

(1)理屈では割り切れないほどの深い関係だ。特に、男女関係についていう。
(2)道理に合わない。筋が通らない。むちゃくちゃだ。
(3)どうしようもなくつらい。やりきれない。
(4)やむを得ない。避けられない。
(5)ひととおりでない。格別だ。
(6)非常にすぐれている。すばらしい。
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主人公はドキュメンタリー作家の伊奈笙子、69歳。パリ行きの飛行機で一回り年下の58歳の会社役員で既婚者の九鬼兼太と知り合う。



パリの寿司屋で少し熱を出した笙子の左隣に座った九鬼は、その左頬を笙子の前髪をあげて突然自分の頬を笙子の額にぴたりとつけた。
唇がすぐそこにあった。
九鬼「38度はありますね。」


70歳の笙子の誕生日、「…70歳と17時間…  私もう若くないの」
その視線の下で笙子の体が温もり、熱さを持ち痺れていった。
なまめいて肌を伝っていく熱い唇が全身を覆い、かつてこれが女の花びらだと感じた丘陵にわけ入ったとき…甘くときめくエロスが漂い、それが溶け合わない虚しさの果てで笙子は悲鳴をあげた。

侵入してきた九鬼を受け入れながらも激痛が走った。固く閉じたオブジェの扉は開くことができないでただ裂けたように笙子は感じた。
身をそらせながら発した自分の叫び声に自分で傷つき、蒼ざめていった。この世の果てのような暗がりの中で笙子はもがいた。


笙子は覚悟を決めて婦人科を訪れる。
初老の婦人科医が言ったことや、処方してくれた、ちょっと薬局に提出するのがためらわれるような薬やクリームの類いも、70歳の体を、むかしに戻すことには無理があった。
疼きだす熱を持ちはじめた体と、時に激しい痛みの中で笙子はもだえていた。


2005年春から東日本大震災の都でわかれる2011年の秋までの7年間の濃密な性愛が描かれている。
「あなた、今、私の中にいるの?」
「笙子の中にいるよ」





熟年・初老の性愛と離婚

岸惠子73歳の誕生日からから79歳まで6年間余りの「理無き恋」を描いた、岸自身の私小説とも告白日記とも思わせる内容で、性愛場面はとてもリアリティーに描かれている。生々しい表現で70代の女性の恋愛について書かれている。

10代、20代でもなく、また、30代、40代でもない70代の女性がこのような恋愛・SEXができる最後まで女としていたい!
更年期を迎えた熟年女性、そして初老女性が「性愛」の機会に遭遇すると、どのように変化して「性愛」と向き合うか。

熟年夫婦、初老夫婦の離婚問題を理解する上で、「熟年、初老の性」は重要なキーワードとなっています。
続きは、次回お話します。




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【参考】岸惠子の人物・来歴(ウィキペディア(Wikipedia)より)

神奈川県横浜市神奈川区生まれ。
1945年5月の横浜大空襲で被災。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。

もともとは作家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎監督にスカウトされ、大学入学までという条件で『我が家は楽し』に出演したのを契機に映画界入り。

1951年: 松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビュー。
1952年: 『坊ちゃん重役』で鶴田浩二と佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出す。松竹はこれを拒否したため、岸は辞表を出す。松竹が折れて、岸はこの映画に出演可能となる。続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演して大ヒットとなる。この頃、鶴田との関係がしきりに報道されていたが、松竹に強引に別れさせられることとなる。噂によれば、ヤクザ俳優の鶴田に言い寄られて、フランスに逃げたと言われている。
1953年 - 1954年: 映画『君の名は』3部作が大ヒットする。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。
1954年: 有馬稲子、久我美子とともに、「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
1956年: フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演する。
1957年: 『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピ(Yves Ciampi)と結婚。フランスで、作家・川端康成の立会いのもと挙式。以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。この頃に、サルトル、ボーヴォワール、マルロー、コクトーらと親交を持つ。
1963年: 1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産。
1975年: イヴ・シャンピと離婚。娘・デルフィーヌの親権は岸が持つこととなる。
1996年: 国連人口基金親善大使に任命。

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