なごやん -16ページ目

守り切れず・・・orz

第2ステージ第3節 アウェー 川崎戦

川崎フロンターレ 3-2 アルビレックス新潟

 今日は職場の飲み会でサボることができなかったため、最後の20分くらいだけ試合を追った。
 その時点で新潟がリードしていた。

 首位を走る川崎で、しかも等々力だ。負けなけりゃいいぐらいに思っていたので、こりゃ上出来だとワクワクしていた。

 しかししかし・・・またもやオウンゴールで同点に追い着かれ、アディショナルタイムに逆転されてしまった。

 「惜しかった」ですむのだろうか?

 勝ち続ける川崎、負け続ける新潟。「調子」とはこうしたものかもしれない。

 応援の皆さん、お疲れさまでした。

相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートク、ブンデス、HSV)

アルビブログです⇒

なごやんのBCL史(26)ヴァルタヴァ流れる百塔の街

 今回は私のBCL歴の中で最も印象深かった放送局のひとつ、ラジオ・プラハと「激動の時代」の話です。


【背景】

 私は行ったことがありませんが、チェコ共和国の首都プラハは先の尖った塔(尖塔)がたくさんあることから、「百塔の街」とも呼ばれます。作曲家スメタナの交響詩「わが祖国」にある「ヴァルタヴァ(モルダウ)川」が流れ、プラハ城やカレル橋などの観光名所も豊富で、まさに国際観光都市です。


 第二次世界大戦後に隣国スロバキアとの併合により、社会主義国としての「チェコスロバキア共和国」が設立されました。ただし、正式に社会主義を宣言したのは1960年のことで、国名も「チェコスロバキア社会主義共和国」になりました。


【ラジオ・プラハ】

 そのチェコスロバキアにあったのが「チェコスロバキア・ラジオČeskoslovenský rozhlas)」で、私はBCLを始めて比較的早期からその放送局の国外向け放送、ラジオ・プラハ(Radio Praha)を聴いていました。


 ラジオ・プラハに日本語放送はありませんでしたが、国際放送として英語、ドイツ語等、ヨーロッパ言語を中心に世界に向けて発信もしていました。

 私が聴いていたのは主にアジア、オセアニア向けの英語放送Radio Pragueです。


 インターバルシグナルはKupředu, levá, zpátky ni krok ! (左へ進め、後退するな!)という労働歌で、「♪ Kupředu, levá, kupředu, levá」の部分がトランペットで奏でられました。インターバルシグナルに次いで「This is Radio Prague, Czechoslovakia.」というアナウンスで放送が始まりました。


 この放送にはニュース、音楽など楽しめる番組がたくさんあり、よく聴きました。


 受信証の図案は鮮やかで、しかも落ち着きを持ち、私のお気に入りのひとつです。私のラジオ・プラハ受信証第1号(尖塔の建築物)


 ラジオ・プラハからの手紙の封筒には記念切手が貼られていることもありました。

チェコスロバキア放送設立40周年記念切手(封筒からはがしてしまったのは大失敗です。)

Československý rozhlas=チェコスロバキア・ラジオ; hlas miru=平和の声)


 多くの情報を載せたリーフレットは読みごたえがありました。

リーフレット


 チェコスロバキアでは工業も発展し、東欧の中ではかなり優等生的だったようです。


【記念グッズ】

 放送聴取者に対しても、結構サービスがよく、ちょっとした記念品送ってくれました。織物のブックマークを学校の地図帳や教科書などで使うと、おしゃれで、ちょっとカッコつけになりました。

ペナント、シール、ブックマーク


 熱心な聴取者だった私はラジオ・プラハ モニタークラブの会員になり、熱心に報告を送っていました。

ラジオ・プラハモニータクラブ会員証


 一方、当時の東欧では国内の政治や経済がかなり統制されていて、資本主義国のように「貧富の差」は大きくないものの、西欧的な「自由さ」には欠けていました。

 そんな政治体制に不満を持つ国民も少しずつ増えてきていました。


【プラハの春】

 1967年、若い人たちを中心に、当時のチェコスロバキア共産党第一書記兼大統領のノボトニーによる独裁体制を批判する声が大きくなりました。


 そして、1968年1月にはノボトニーに代わってドゥプチェクが共産党第一書記になります。

ドゥプチェク政権は検閲の廃止、市場機能の導入など、西側寄りの政策をとりました。ただし、あくまでもソ連圏の一員としてであり、ソ連邦との友好関係は堅持していました。


 ノボトニーは大統領をも辞職し、大統領にはスヴォボダが就きました。(ちなみに、スラブ系言語の多くでは「スヴォボダ(свободаsvoboda)」は「自由」を意味します。)


 その時にチェコスロバキア共産党中央委員会で採択された「行動綱領」は新しい社会主義モデルでもありました。当時は「人間の顔をした社会主義」と言われたものです。


 また、知識人を中心に自由化を求める声も現れ、それは「二千語宣言」の名で公表されました。この中には東京オリンピックで金メダルを取った、体操のヴェラ・チャスラフスカ選手も含まれていました。


 こういった一連の動きはプラハの春として世界に知れ渡りました。


【危機に直面】

 二千語宣言の内容は政府の出した政策(行動綱領)の域を越えるものではなく、それを一般国民から出したものに過ぎなかったのですが、当時のソ連邦は「反革命の動き」として警戒しました。隣国のポーランドや東ドイツではより強い警戒心を持ってチェコスロバキアを見ていました。


 「自由化」への懸念から、ついに近隣社会主義国が動きます。

 ソ連邦を中心としたワルシャワ条約機構軍が1968年8月20日、チェコスロバキアへ侵攻し、全土を支配下に置いたのです。

 「チェコ事件です。


 一枚岩とみられていた親ソ国家群(=ワルシャワ条約機構)の内部矛盾をさらけ出した事件でした。ベルリンの壁が崩壊する実に21年前のことです。


 ラジオ・プラハも混乱します。

 はっきりしたことはわかりませんが、放送局もこの事件に巻き込まれ死傷者も出たようです。


 その時期、受信状態がよくなかったこととも相俟って、私はラジオ・プラハを聞けなくなってしまいました。

 放送は場所を移して続けられていたようです。


 一方、「ラジオ自由プラハ」という放送が情報を流しました。私も受信したのですが、それらは東欧の諸言語で放送されていて、きちんと理解するには至りませんでした。この放送局がラジオ・プラハと同じもの、即ちラジオ・プラハの地下局であるかどうかは確認していません。


 ログを振り返ると、私は隣国オーストリアの「オーストリア放送」でチェコスロバキア情報を得ていたようです。

ラジオ・自由プラハとオーストリア放送のログ

(ラジオ自由プラハの言語を「various」としています。東欧の多言語で放送されていました。)


【その後のラジオ・プラハ】

 一連の「チェコ事件」は9月になってようやく平常化しました。


 前述のチャスラフスカ選手は二千語宣言に署名したこともあって、その年に行われたメキシコ五輪への出場が危ぶまれていましたが、オリンピック直前に出国が許可され、そのオリンピックでは見事、4個の金メダル、2個の銀メダルと全種目でメダルを獲得しました。


 ただ、チャスラフスカはチェコスロバキアが「正常化」された後も二千語宣言の署名を撤回しなかったため、帰国後の待遇はよくなかったようです。


 私のラジオ・プラハのログには、ドゥプチェク首相がチャスラフスカに祝電を送ったことがチェコ語のニュースの内容として記載されています。(telegramme に冠詞が抜けているのはご愛敬ってことで。)

表裏2ページに渡るラジオ・プラハのログ


 私はチェコ語の放送に続いて行われていた英語放送の受信報告を送りました。(写真右下RPT=reported)


 ただ、それに対してラジオ・プラハからは何の返信もありませんでした。理由はわかりません。


 しばらくして、その年の12月、ラジオ・プラハから突如手紙が届きました。放送局の現状を知らせる内容です。この手紙と一緒にプログラム表も送られてきました。

プラハからの手紙


 その後も私はラジオ・プラハを何度となく聴きましたが、受信報告を再開したのは1970年2月になってからで、その頃になると、以前通り受信証が送られてきました。


 そして、正常化されたチェコスロバキアは他の社会主義国との関係も改善し、1970年4月のレーニン生誕100年に際しては記念切手も発行されています。

ラジオ・プラハの受信証(葉書)(上)と後日送られてきた初日印付きレーニン生誕100周年記念切手を貼った封筒(下)、中に入っていたメッセージ(中)


 1970年代後半になると、私はラジオ・プラハを聴く機会がほとんどなくなってしまいました。モニタークラブがどうなったかもわかりません。

 ただ、頻繁に書いた受信報告に対する美しい受信証はしっかり残っています。

ラジオ・プラハ受信証の一部


 その後、チェコスロバキアはチェコとスロバキアに別れましたが、ラジオ・プラハはチェコに受け継がれ、現在ではインターネットで聴くことができます。また、ラジオ・プラハのホームページには放送局の歴史が私がここに書いたよりも生々しく語られていますので、興味のある方はアクセスしてみてください。


過去の記事はBCL史開始にあたってにまとめてあります。

相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートク、ブンデス、HSV)


ブログランキングです⇒

ホームゲームだったが・・・

第2ステージ第2節 ホーム 湘南戦

アルビレックス新潟 0-1 湘南ベルマーレ

 先週金曜日から今日まで名古屋を離れていて、PCにもTV にもアクセスできず、昨晩ケータイで結果を知っただけだった。

 今日になってオフィシャルのダイジェスト映像を見た。
 セットプレーで失点していた。
 新潟もCK、直接FKはそこそこあったようだが、得点に結びついていなかった。今季はセットプレーからよく得点しているのだが・・・

 下位のダンゴ状態からウチに勝った湘南が半歩抜け出したのかな?

 とにかく、終盤に手ごわい相手と戦わなければならない新潟だ、このあたりで勝利を固めておかないと危うくなる。

 攻撃陣、しっかり点をとってくれー!

 応援の皆さん、お疲れさまでした。

相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートク、ブンデス、HSV)

アルビレックス新潟ブログです⇒

なごやんのBCL史(番外③)あのときそれから

 少し前の話ですが、朝日新聞(名古屋)6月29日の夕刊「あのとき それから」のコーナーに「1972年(昭和47年)短波ラジオ BCLブーム」という記事がありました。
新聞記事

 この記事では、かつてラジオ・オーストラリア(ABC)のアナウンサーだった西里扶甬子さんが、当時の状況について語ってくれています。
 「そうそう、そうだったなぁ。」なんて思い出しながら読みました。

 スカイセンサー(私のところではまだ現役)、クーガーなどの受信機や雑誌なども・・・

 BCLが一大ブームになった時代の話で、ラジオ・オーストラリアでは受信報告書が月間2万通にも達し、一時は受付を停止したそうです。

 私はそのチョット前の時代の愛好者で、いわば、そのブームの火付け役のひとりだったと自負しています。

 記事は「BCLの神様」と慕われた故・山田耕嗣さんにも触れています。山田さんは(お会いしたことはありませんが)放送評論家というだけでなく、中高校生を中心にBCLを広めることにも尽力された大先輩であり、正に神様みたいな方でした。私たちの世代は山田さんやその周辺の方々の影響を受け、BCLへのめりこんでいったのです。

 山田さんが2008年、若干67歳で亡くなられた時には海外の多くの放送局で追悼の特別番組や追悼の言葉が放送されました。

 ちょうどその頃からインターネットの普及とともに短波放送や各国の国際放送は縮小の一途を辿り、ヨーロッパを始め、多くの国では短波による国際放送を中止してしまいました。

 今は衛星放送やインターネット放送で外国のテレビも視ることができますからね。

 ただ、最近では、往年のBCL愛好者やDXerと呼ばれる人たちが復活してきているという話もあります。そうは言っても、放送自体が存在しなければ聴くこともできません。

 インターネットはラジオも含め雑音もなく聴き易いのですが、状況によっては使えなくなります。電波、特にアマチュア無線も含めた短波による放送は比較的遠くまで通信でき、今の時代でも手放せないものではないかと思ったりもします。

 そんな思いを抱きながら、しばらくの間(ネタ切れになるまで)、このシリーズを続けます。

SWL/DX/BCLの過去記事はこちらをご覧ください。

相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートク、ブンデス、HSV)

期日前投票

 コーヒー豆がなくなったので買うために街へ出た。焙煎してもらうまでに時間があるので、その時間を利用して区役所へ行き、参議院議員選挙の「期日前投票」をやってきた。
 選挙当日、家にいる確証がないためだ。

 投票はフツーに行ったのだが、区役所から出てくると「出口調査」の人たち3名に待ち伏せされた。

 「ん、みなさん同じ会社ですか?」
 -A:いえ、◇▽新聞です。
 -B:△□通信です。
 -C:◇×放送です。

 「うーん、どこにしようかなぁ。」
 -A,B,C:それぞれお願いします。同じことを答えられるんでしょうけど。よろしく。

 ということで、3社とも答えてきた。
 私は不在者投票時代から、原則的に期日前投票を行うので、出口調査に出会うのは慣れている。もう何回目だろう?

 性、年代、投票先(候補者、政党)、支持政党は各社同じだが、その後が少し違っていた。
 タッチパネル、ボールペン、サインペンなど使用アイテムも違う。(笑)
 
 特に憲法改正に関しては、「なるほど、こう聞いてくるか。」てなものだった。(と、そこまで読める私は相当場慣れしてるんだよな、タブン。)

 各社どんな風にまとめるのか楽しみにしていよう。
 私は正直に答えたが、みんなそうなのかどうかは不明だ。

相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートク、MF転向か?)

政治のブログです⇒