














自由100%だったら、
それはもはや自由ではないんだよね~。
自由100%とはつまり、自由そのものということ。
だから自由100%って自由ではないんだよね。
自由って、不自由が隣にいてくれて初めて自由として現れることができるから。
自由は、不自由がいてくれなきゃ自由であることを知る術がないんだよ。
自由100%(そのもの)は、
自由を満喫することなど出来ない。
自由100%(そのもの)が自由を満喫するためには、不自由が現れてくれなきゃ話にはならないのだから。
自由100%(そのもの)は、不自由無しでは自由であることが出来ないし自由であることを知れない。
そして、自由と不自由は同じ(同一)。
見方が違うだけで、自由とも不自由とも見ることができる。
自由と不自由は同じなのだから、
もはや不自由でさえ自由なんだね~♪
自由と不自由は同じだし、本来は自由も不自由も無いんだけど、今日ここでは、どっぷりとストーリーに浸かって話を進めます。
見方によって、自由にも見えるし不自由にも見えるってことは、どのように見ても良いという自由さが そもそもあるのでは?
自由であることを知るために不自由を出現させた優しさは、優しさ100%(そのもの)だなw
この100%は、純粋な…ってこと。
本来は0も100も同じなんだがね(笑)
0でも100でも1000でも何でもいいけど、純粋な自由そのものは、不自由という苦さを知ったことによって、自由という甘さを知れたんだよ。
それよりなにより、不自由を「不自由ということにしちゃった」のは、自由であるが故ってことじゃん(笑)
これは自由で、これは不自由という境界線などどこにもありはしないのに、「境界線があるということにできちゃってる」のだから、そもそも自由でしかないってことだよね
自分の頭の中は、「自分」を先頭に境界線だらけなんだよ。
目の前に境界線があったことは、ただの一度もないのにね(笑)
でもまぁ、境界線(分離)がなければ思考が仕事にならない(ストーリーにならない)のだから、まさにミラクル100% 自由100%(笑)
…と、こんな話をズラズラ書けるのも自由だからなんだよね~(ˊᗜˋ*)w
不自由がなくなっちゃったら、自由もなくなっちゃうんだから、不自由も自由のうち(嫌よ嫌よも好きのうち)ってことだね
言葉はストーリー、、つまり指し示すだけのものであって決して「それそのもの」ではないけど、「なにものでもないもの」を、「なにか」ってことにできちゃうなんて、言葉(分離ストーリー)って素晴らしいよね✩.*˚
「なにか(二元)」と「なにも無さ(非二元)」は同一、「分離」と「非分離」は同一。
本来は、それでさえも無い空っぽさが在るだけ。
だから、どんなストーリー(不自由や不幸など)が現れてもいいんだよ、、、本来は自由そのもの(非二元・非分離そのもの)なんだから
あー、今日はなんだか
「100%」を乱用しすぎたな。゚(゚^∀^゚)゚。ギャハハ!








