私の中学・高校時代の友人 同級生の女性Sさん。
個人的な付き合いがあったわけではないのですが、男女のグループ7~8人で中学・高校時代に初日の出参拝・初詣に行ったり、東京へスケートなどに遊びに行ったり・・という仲良しグループの一員でした。
そのSさんが、たしか10年近く前(2004~2005年ごろ?)かと思いますが、ある時私のところにやってきて、「今度鉄道写真の写真展を私の店で開催しますので、このチラシを配ってもらいたいのですが・・」とのこと。
そのお店というのが、ブルートレインを改造したレストラン「イワシクラ」だったのです。早速チラシをくばり、訪問も約束しました。
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そういえば、鴨川市の国道128号線、今のガストの第2駐車場(東寄り)の、さらにやや東側あたり、ちょうどココス駐車場への入り口のあたり国道の北側に、20系寝台車の車体が横たわっているのを以前から見ており、ロシア語らしい表記の店名は「なんと読むのかな?」と思っていました。
数日後、友人と店を訪ねてみました。
車内へは階段を4~5段ほど上ります。形式はナロネ20だった気がします(うる覚え・・)が、それだったらもとは1人用個室ルーメット・2人用個室コンパートメントで、種車があまりにも少ないはずなので、もしかしてナハネ20だったかもしれません。
車体が2/3くらいにカットされてはいたものの 色・外装はほぼそのままで、折り戸だったはずの種車の入り口ドアは改造されていました。
車内に入ると小さい部屋。右へ曲がるとレストラン店内となります。大きな車体はそのままですが、もちろん寝台・寝台区分は撤去され、新規にテーブルがならんでいました。20系寝台車のインテリアはあまり感じられません。
中央奥寄り、待崎川側に厨房が増設されており、外から見て外部に付け加えた建物が内部が厨房のようでした。
鴨居部分にパネルに入った蒸気機関車の写真が両側に展示されていました。10枚以上はあったと思います。モノクロで、主に山陰・北九州・東北のローカル線貨物・北海道などがあった記憶があります。作者の名前は表記がありましたが、全部同じかたで、どういう方かはわかりません。
Sさんの案内で、奥のほうからご主人もやってきて、いろいろ話をきかせていただきました。
注目の寝台車ですが、たしか米子から運んできたと言っていました。費用が結構かかったこと。どこぞ(たしか鈴鹿峠?)の峠越えでは大変だったこと。ここ(待崎川左岸に近接設置した、のちほどの位置)に置くまでは国道の北側にしばらくあったこと、などいろいろ聞かせていただけました。
ナハネ20(またはナロネ20)は若番で、訪問時の私の想像ですが、博多「あさかぜ」に使われていたものではないだろうか?と思われました。
博多「あさかぜ」に20系が使用されていたのは、昭和53年頃までだったかと思います。もしかしたらその後、大阪~福知山線経由~米子~出雲市を結んでいた夜行急行「だいせん」に座席指定車として組み込まれていた改造の20系(ナハ21形)だったのかも知れません。そうだとすると米子から・・という話と符号します。「十和田」などにも使われたナハ21形は1~16の16両あったそうで、種車はナロネ21形(解放式プルマンA寝台)ということになります。いずれにしても中間車にはまちがいなさそうでした。
もし旧「だいせん」車だったなら、昭和55年の3月に友人と山陰旅行で乗ったので、私にとっては「再会」ということかもしれません。「イワシクラ」の正確なナンバーを控えておけばよかった・・・
注文したカレーが出てきました。ハーブ・香草が入ったさらりとしたスープに近い濃さのカレーだったと思います。すっきりとしていて、健康に良さそうでした。
「今度は子供も連れて家族で来ますね」と辞しました。
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半年くらいたったある日、帰省してきた共通の友人と、今度はカメラを持って夕方に訪ねてみました。暖かい照明の車内を撮りたいと思ったのでしょう。しかし、残念ながら休業日でした。
海のすぐそばのせいか、車体外部にはサビや塗装のはがれなどの傷みも若干見られました。
暗くなってきたので、写真は撮りませんでした。その時は、また来れると信じて疑わなかったので、「明るいときに次回また来よう」といって他店に向かいました。
なぜかそのまま訪問する機会を得ないまま、2~3年後に思い出して、写真を撮る目的で行ってみると、なんと再開発かですっかり様子は変わっており、「イワシクラ」のお店自体がありませんでした。前回に撮っておいたら・・・と非常に残念に思いました。
いな穂※さんのブログによると、その後薬膳弁当の宅配を始めた・・とのこと。それもこの2013年1月末で終了してしまった・・とのことです。
街でSさんに出会ったら近況を聞いてみたいものです。自宅は知っているのですが、訪ねてゆくキッカケと勇気がいまいち無い・・・
今回は20系「あさかぜ」の画像をさがしてみました。20系が「あさかぜ」から引退間近となった時に撮った少ししかありません。モノクロだったらS48年のがありますが、「あさかぜ」ではありませんでした。(はやぶさや出雲)
S51(1976)年12月29日、10:27 田町を行く10レ「あさかぜ2号」博多発
なぜか1時間2分ほど遅れていました。
画像(ポジ)が色がうすれているので、彩度アップの修整をしたので、空がこんな色になってしまっています。それを直すと他の色がおかしくなるwww
上り「あさかぜ1号」14レは下関16:05発→7:30東京、でしたが、10レは博多16:58発→9:30東京、(以上所定なら)でした。
自分は大阪23:20発6102レ「銀河51号」→9:34品川(終着)、で帰省してきたところだったと思います。全車指定席の14系座席「銀河」は愛用していました。いつも空いていたし。。
本来なら大船8:51通過(所定)で先行するはずの10レがいっこうに上らないので、田町で待ち構えてみたものです。やはり遅れていた6102レの直後を雁行していたらしく、すぐにやってきてしまいました。
ちなみに、6102レ「銀河51号」に沼津以降で5分先行する102レ「銀河」(当時は旧客から20系になって1年ほど経っていた)は横浜で10レ「あさかぜ2号」を退避(10レ所定は9:04着)していました。
同じS51.12.29、東京駅にまわってみました。10レは12番線着。
EF65 527(東京機関区)が11番線経由→12番線で機回しを終了し、品川への回送発車を待っている場面です。
東京駅11番線を通って機回しをするシーンはそれまでずっと頻繁に見られました。後には品川への回送は段落とし運用となりましたが、S51年当時は牽引してきたカマが同じ客車の反対側に付くのがあたりまえでした。
遅れて12番線を10:43に発車して品川へ向かいます。ナハネフ22の独特な風貌。
S52(1977).10.1 4:08 岡山
9レ「あさかぜ1号」発車 ナハネフ22 2 でした。
この日、高松や金刀比羅宮、琴電などを訪問するゆるりとした目的で四国へ向かっていました。前日から601M「鷲羽」で神戸23:57→1:50岡山。
そのまま乗っていれば宇野から連絡船で四国へ渡れるのに、東京~九州間のブルトレ各種を撮影するために岡山で下車し、待合室でじっと待っていました。
私が神戸にいたころで、関西~九州間の夜行列車は早朝にいくらでも撮れましたがヘッドマークは無し。東京~九州のブルトレは深夜0~4時台に複々線を爆走する姿を見るだけだったので、何とか9レ・13レ・15レを撮影したいもの・・と思ったにちがいありません。しかし肝心のHMは、闇の中の前出し停車でどうしようもなかった・・・

