当ブログ No.384) キハ30形の「架線注意」 の記事の続きです。すっかり遅くなってしまいすいません。
9月17日に No.384) を書いてからだいぶ経ってしまったので、 No.384) の記事は URLは 以下 ↓
http://ameblo.jp/nagisa04/entry-11356735014.html
久留里線のキハ30形、3両が「架線注意」のステッカーの位置がいろいろだ・・・という話でしたが、さて、本来の国鉄時代のステッカーの位置はどうだったか?ということで、いろいろ過去ネガ・ポジ・デジ画像を探してみました。
2009(H21).7.15 7:01 921D 下郡~小櫃
キハ30 62+キハ38 X2両←木更津方
上り初発の920Dの折返しで、朝の増結のキハ30 は亀山側に付いています。当時は1両の増結は下り側で、2012年3月改正で反対側(木更津側)に変更となりました。
なぜ増結の位置が変更になったのか?おそらく、ですが、木更津駅で増解結する際に、1両のキハ30が踏切を閉鎖させつつ転線しますが、木更津駅の巌根方の踏切のほうが通行量が圧倒的に多く、周辺の道路交通に配慮したのではないかと思われます。木更津駅の君津方にも貝淵踏切がありますが、通行量は木更津駅北側の踏切に比べるとずっと少ないようです。
また、木更津駅の北側から入換えをしていたころは、踏切の先の、木更津~祇園間の久留里線本線上で停車していましたが、南側から入換えするのには内房線の下り本線を越えてゆかなかればいけません。専用の折り返し用 中線は内房線の上下間にあります。そのデメリットをさしおいてでも南側から入換えをするようになったものです。内房線の昼間の特急が壊滅してしまい本数が減ったことも影響があるのかもしれません。
で、「架線注意」のステッカーは当然今のキハ30 62 と同じです。ちなみにこちら側は前位。
2012.3.16までは 平日と土曜の朝上りはこんな状況でした。
上総亀山発 5:08 920D 3両(日曜のみ2両)
6:02 922D 4両( ” )
6:56 924D 4両( ” )
7:48 926D 3両( ” )
8:46 928D 4両( ” )
ちなみに下りは
木更津発 6:26 921D 3両(日曜のみ2両)
7:21 923D 4両( ” )
以降は16:29発941Dが3両になりますが、それまでは全て2両。それ以後は943D 4両、945D 4両、947D 3両、949D 4両、951D 3両、953D(最終キサ22:32発)4両、でした。う~ん、遠い昔のようです。今年3月までのことなのに。。。
では、遠い昔で、1977(S52)12.31 大原駅 木原線上総中野7:42発の758D
キハ30 13(千キサ) 国鉄色(ツートン)時代にはあったはずのステッカーは首都圏色(タラコ色)になった時に撤去されていました。
ツートンカラーからタラコ色に塗り替えられたのは このS52年の秋ごろでした。
同じ758Dの勝浦側はキハ17。ナンバーは渡り板が寝ていて見えませんが、サイドから188?のようです。やはりステッカーはありません。折返し大原発8:55の755D大多喜行きになります。
やはりS52年秋ごろにタラコ色になったようで、まだこの時点では塗色がきれいな状態です。キハ17 188 としたら、S55年6月に木更津を最後に廃車されました。
木原線のネグラは勝浦機関区(この当時は千カウ の名は無くなっていて キサの支区)なので、1日2~3往復の回送が大原~勝浦間を日中定期運用として走っていました。他に、勝浦~館山~木更津間の回送も時々ありました。
タラコ色になったときに、ステッカーがすべて撤去されていたわけではありません。この久留里線キハ30では向かって左側にのみ残っていました。
1988(S63).2.22 7:15 久留里を出てゆく921D上総亀山行き(この1枚再掲)
方向幕が「大原-上総中野」ですが、まぎれも無く久留里線921Dです。後追い。
キハ30 21+キハ37 1003+キハ35 176→上総亀山方
新製のキハ37が3両(2・1002・1003)配属されてきました。キハ38はまだ八高線に全車があり、久留里線には来ていません。
ところ変わって、長野、北海道、新潟から、
1973(S48).8.12 12:08 野辺山 小海線へC56+旧客 を撮りに行ったときの1枚。
左:237D 小淵沢11:20発→14:03小諸
キハ11 55他 野辺山12:06~12:09停車
右:急行「八ヶ岳」 小諸発新宿行き(小諸10:25発 快速2424D→11:14小海11:19 ここから急行4404Dに→野辺山12:08発→12:44小淵沢13:08 1404D急行「アルプス5号」に併結→甲府13:42→15:43新宿)
野辺山は、松原湖とともに7月15日~8月末と12月20日~2月末までの臨時停車でした。他に佐久海ノ口への4月1日~11月10日の臨時停車もありましたが、年間停車するのは小海~小淵沢間では信濃川上・清里の2駅のみでした。
その右3番線にはC56牽引の臨時快速が止っています。中込発小淵沢行き
ステッカーはキハ58(57かも?)は左右の低め定位置です。塗り分け線の下が定位置のようです。
上の237Dの最後部キハ11 55
貫通ドアの左右に取っ手が付いていますので、2枚のステッカーはそのさらに下になっています。
貫通ドアのガラスが割れてしまったらしく、板で応急修理してあります。
1973.8.12 14:04 239D 小淵沢13:20→16:11小諸
キハ20・52系3連+キハ10 38←小淵沢方
小海線は勾配が急なのでほとんどが2エンジン車でしたが、キハ10 38は夏季の応援だったのでしょうか?
1枚前のキハ10と違って、ステッカーは1枚で取っ手の上に貼ってあり、塗り分け線にかかっています。
1973.8.12 14:19 234D 小諸→14:59小淵沢
キハ20・52系2連+キハ10 35→小淵沢方
同じキハ10でも、このNo35は取っ手の下。1枚。
猛暑の炎天下、国鉄最高地点の先の鉄橋へ向かってひたすら歩きました。折り返しの下りC56+旧客2連 を迎えうつためです。
肝心のC56は、八ヶ岳バックにサイドからの構図で撮れましたが、午後で太陽が西へ傾き逆光でした。
ところ変わって北海道は石北本線。
1974(S49).3.28 9:47頃 網走~呼人
C58貨物を待つ間にやってきた558Dで、網走9:40発→12:24遠軽 キハ22 34他
美幌からの相生線が健在のころで、この558Dも美幌で北見相生からの726Dを併結します。
同、キハ22 34を拡大。
「架線注意」ステッカーは左右で、塗り分け線の下側。電化区間なんて遠く、230Kmも西に行った旭川まで行かなければ架線の下に入らないのに、広域転配も考慮して すべからくステッカーは貼ってあったようです。
1990(H2).2.12 13:01 大糸線435D 小滝~根知
キハ58 1124+キハ58 524←南小谷方
どうもステッカーはこの位置が一番多数派のようです。ありゃ、方向幕に「南小谷」を掲出したままですが、ライトも点灯しているし、435D糸魚川行きです。
当時は、大糸北線に、関西からのスキー臨「シュプール白馬・栂池」が多数乗り入れており、この日は、夜行下り(現地早朝着)が5本ありました。キハ181系7連が2本、20系客車7連PPが2本、キハ65系改「エーデル鳥取形」6連が1本です。
日中は金沢・糸魚川~白馬間の回送も輻輳し、大忙しです。JR西日本は、回送を円滑にさばくために、大糸線の単線棒駅に退避線を造ることもしました。大糸線の黄金時代です。
「シュプール白馬・栂池」については、関連した話題ができたときにでもまた。。