延命治療 | 凪の時間 (滑膜肉腫と共に)

凪の時間 (滑膜肉腫と共に)

高校1年生の時に滑膜肉腫を発症した息子の記録です。
約6年の闘病生活。転移、所術は数知れず。
亡くなる瞬間まで生きることに全力を傾けた息子の生の姿です。
2023.11.19以降は、母の想いを綴る独り言日記に変わりそうです。

入院する場合、救急搬送された場合、在宅医療に移った場合、聞かれたことがある人も多いはず。

 

「延命治療はどうしますか?」

 

息子は、在宅になって最初の往診で書類をもらった。

 

どの措置を希望して、どの措置を希望しないか、事細かく書かれていた。

 

私が

 

「延命措置なんてしないよね」

 

と呟くように言うと、息子が驚いたように私の顔を見て

 

「えっ?」

 

って言った。

 

私も驚いて

 

「えっ?」

 

って聞き返した。

 

だってがん患者の延命措置は、それによって蘇生したところでガンが無くなるわけじゃない。

助かってもまたすぐに同じことが起きる。

何度も同じ苦しみを味合わせたくないと思っていた。

 

息子は息子なりに、絶対私が助けてくれるはずと思っていたようだ。

 

ただ、そんな気持ちを口に出して言うのは残酷な気がして、何も言わずその書類は一旦保留にした。

 

ずっと結論が出ないまま、というか話し合ってもいないまま、11月の19日を迎えることとなってしまった。

 

息子の首がガクンと垂れ、目が白目になった時、

 

「終わった」

 

と直感した。

 

ダメなのはわかっていた。

 

何をしても蘇生しないだろう。

 

それでも救急車を呼んだ。

 

言っていることとやっていることが真逆。

 

でもそのままサヨナラできる心境じゃなかった。

 

救急車の中でも救急隊の人たちが、

 

「お母さん、まだ諦めないで! 」

 

と何度も言ってくれてたような気がする。

 

私は、

 

「目を開けて! 戻って来て!」

 

と鳴き叫びながら息子の手を握っていた。

 

最後には

 

「〇(息子)、起きなさい!」

 

と怒鳴っていた。

 

病院に到着して、先生方も手を尽くして、心臓マッサージはもちろん、カンフル注射や気管挿管をして人工呼吸をしても、息子は戻って来てはくれなかった。

 

CT画像を見た先生は

 

「生きていたのが不思議です」

 

と言った。

 

延命措置の選択、理屈じゃないと感じた。

 

あのまま静かに見送ることもできた。

 

無理だと感じたのに、何故救急車を呼んだのだろう。

 

あんな書類1枚で、最後の約束をするなんて私には無理だった。