【再読】 ゾラ『ナナ』川口篤/古賀照一訳 新潮文庫

定期的に読み返したくなる、大好きな一冊です。
エミール・ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』第9作目。
ゾラの作品の中でも特に好きです。
ナナの奔放さがたまらん!!
それでは早速、内容について書いていきたいと思います。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
混沌としたパリの町を舞台に繰り広げられる、愛と欲に塗れながら生きる人々の物語。
ヒロインが娼婦ということもあり、とにかく男女の関係がこれでもかと描写されています。
愛憎で結ばれた複雑な人間関係、痴情のもつれのあれやこれ、女を食い物にする男たち。貞節を装いながら姦通する奥方もいれば、妻を男に斡旋して稼ぐ夫もいます。貴族から一市民に至るまで、抱く欲望には変わりがないのだと再認識させられます。
そして、そんな社会で生まれた少女の一人であるナナ(ヒロイン)は、娼婦から女優に、そして高級娼婦となり、やがて男たちの女王として君臨していくことになります。
魔性の女、ナナがとにかく魅力的な作品です。
第一章、パリの劇場に「ナナ」が登場します。
芝居の中心人物であるヴィナス役で、女優としてのデビューを飾ったナナ。
開演するまでの間にかなりの数の人物名が出てくるので、初見時は何度も読み返しました。
玄人女から貴族まで、様々な人間が集まる混沌とした劇場内。熱気とざわめきに満ちた下品な空気の描写にワクワクします。
現れたナナは大柄で豊満な身体を持った十八歳の少女。金髪に青い瞳の持ち主です。
歌も芝居もヘタクソ、にも関わらず、ナナはその素晴らしい肉体と愛嬌でもって、あっという間にお客たちの心を掴みます。
【太腿を叩きながら、まるで牝鶏のような声で歌っているこの大柄な娘ナナは、女の持つ一種の全能の力とでもいうべき、生命の匂をあたりに発散させ、それにお客は酔っていた。この第二幕以後、ナナの身ごなしの拙さも、歌の調子外れも、科白のとちりも、すべてが許された。ナナがちょっとお客の方をむいて笑いさえすれば、もう喝采が起るのだった。】
不敵な自信に満ちたナナ。
薄絹一枚を身に纏っただけの姿で舞台に上がり、その暴力的なまでの色香で男という男を悩殺する、美貌の少女。
パリに数多くいる娼婦の一人でありながら、他には無い強烈な魅力の持ち主です。
そんなヒロイン、ナナですが、性格の方はかなり乱暴で短気。自尊心が高く、自分に貢ぐお客の男たちを見下し、女王のように傲然と振る舞います。加えて我儘で贅沢好きな浪費家。
とはいえ、幼い我が子を愛する母性があったり、涙脆くて感動話に弱かったりと、可愛らしい一面も持っています。
感情の浮き沈みが激しく、悪戯好きで騒々しい。おまけに癇癪持ちで下品で口汚い(畜生!やら、おい、豚野郎!やら平気で言う)。それでも、えくぼを作って笑った顔は無邪気で愛くるしいのです。子供っぽいというか、あざといというか。
生命の輝きそのもののような苛烈さと奔放さでもって人々を魅了する、それがナナというヒロインです。
フォシュリーの「金蠅」の例えも結構好き。
次々と男を変えるナナは、可愛らしいジョルジュ少年と恋をしたり、堅物のミュファ伯爵を虜にしたり、醜い役者のフォンタン(DV彼氏)と同棲したり。
結婚初夜まで童貞を守っていたほど敬虔で、地位も分別もあるミュファ伯爵が肉欲の虜となって堕ちていく流れは、ほぼ作中の本筋ということもあって非常に読み応えがあります。淫蕩の悦びを覚えた彼が神の教えとの間で常に苦しんでいるのも芸術点高め。
悪趣味かもしれませんが、ミュファのナナ狂いは読んでいて本当に楽しいです。
【彼は、自分の敗北を自覚していた。彼女が愚かで、淫猥で、嘘つきであることを知っていた。それなのに、たとえ彼女が毒に犯されていようとも、彼は彼女を欲していた。】
これはミュファがナナを押し倒し、彼女からキレられた直後の地の文です。
ここまで思わせるんですから(それもミュファだけでなく複数の男に)、本当にナナは凄い女性ですよね。
基本的に気性の激しいナナですが、DV彼氏のフォンタンと暮らしている間は、理不尽な罵声と暴力に耐えながら、彼を養うために他の男と寝る健気さを見せます。DV男に弱い、のか……?
そんなところだけ母親に似なくてもいいのに……。
「一途で健気な自分」に酔っている節もありますが、恋人のために尽くすナナはいじらしく、まあこれはこれで魅力的です。
が、そのフォンタンに捨てられてからは、男たちに復讐するかのように、高級娼婦として様々な男たちの資産を容赦なく食い潰し、彼らを次々と破滅させていく魔性の女へと変貌を遂げます。
素朴な物を愛し、堅気に憧れる気持ちはあったのにどうしても上手くいかず、結局は自ら全てを台無しにして、淫蕩と浪費の生活に落ちていく。男たちに食い物にされ、自分も食い物にして目先の快楽の中で生き続ける、そういう生き方しか出来なかったのがナナです。
手始めに自分にぞっこんのミュファ伯爵を丸め込み、情夫として搾取しながら密かに他の男とも関係を結びます。
豪奢な屋敷で暮らし、退屈を恐れ、刺激を求めて遊び回るナナ。
破産しかけていたヴァンドゥーヴル伯爵は資産を吸い尽くされて自殺し、彼女のために金を盗んだフィリップは逮捕され、その弟のジョルジュはナナへの恋に狂って自殺を図りました(最終的には死亡)。
彼女の生活は完全に破綻していて、男たちから金を巻き上げて凄まじい蕩尽ぶりを見せているにも関わらず、常に借金だらけ。食卓のため月に五千フランかけているのに、百三十三フランのパン代すら払えない有様です。
次第に彼女の生活は腐敗と退廃に侵食されていきます。
肉体でもって男たちを屈服させ、臆面もなく金銭を要求し、すぐにヒステリックになっては周囲に当たり散らす、優しさというものをどこかに置き忘れてきてしまったかのような乱暴な振る舞い。淫蕩に耽り、はした金のためにそこらの男と寝たり、時には快楽のためだけに男を連れ込んだり、女同士で「愉しん」だり。「毒婦」という言葉がぴったり当てはまるような女になってしまいます。
享楽的かつ過激な行動の数々から推測される通り、この頃にはもうナナ自身もかなり情緒が不安定になっています。
フィリップから貰った贈り物(彼がお金を捻出して用意したもの)を壊してしまった場面なんて特に強烈でした。スイッチが入ったのかハイテンションで周囲の物を手当たり次第ぶっ壊していくナナ。メンタルがだいぶヤバいところまで来ているのがよく分かります。
安キャバレーの歌手に惚れて、捨てられ、鬱になって自殺を計ったことも。
【彼女は、自分が豚と呼ぶ男たちを軽蔑しながらも、それでも惚れずにはいられなかった。いつでも誰か情夫をスカートの下に隠し、わけの解らぬ色恋沙汰や、身体を磨り減らす自堕落な悪行の世界を転々とした。】
ミュファ伯爵に、フーカルモン、シュタイネル、ラ・ファロワーズ、フォシュリーといった愛人たち。彼らの財産を呑み込み、傲慢な態度と下品な言葉で尊厳を踏み躙り、それに悦びを感じているナナ。彼女のサディストっぷりもなかなかですが、踏み躙られて悦んでいる男たちの方も割と大概です。ミュファも子供や動物に成りきるプレイを楽しんでいましたし。
ナナの男たちの中で、個人的に破滅して可哀想だなと同情できたのはフィリップ、ジョルジュくらいです。
最終的にはミュファ伯爵もナナの元を去り、一人になった彼女は持ち物を売り払って姿を消してしまいます。ここからラストまでは一気に駆け足になります。
誰もナナの行方を知らず、聞こえてくるのはトルコの王を征服したのだとか、カイロの淫売窟にいるのだとか、ロシヤで大公の妾になったのだとかいう真偽不明の噂話ばかり。
そしてその後ナナはひっそりと帰って来て、天然痘で死んでしまうのです。
美しかったナナが、多くの男たちを支配し、パリに君臨したあのナナが、最後には膿と腐肉の塊になって息絶えます。見事な金髪だけはそのままというのが何ともグロテスク。
外からは普仏戦争の始まりを告げる群衆の叫び声、臨終に駆けつけた女達も去り、部屋にはナナの遺体だけが残る、という場面で物語は幕を下ろします。最後に女達が集まって話す場面があるのが良いんですよね。好きです。
一応、ナナは母親よりはマシな死に方ができたんじゃないでしょうか。看取ってもらえたわけですし。
この作品の魅力は、ナナという女性のヒロイン性は勿論のこと、彼女を偶像にまで押し上げた当時の社会の流れ、そこに生きる人々の熱気と期待がとにかく丁寧に描写されているところにあると思います。そのため、ナナ本人の目線ではなく、彼女を取り巻く群衆の一人になったような感覚で物語を追ってしまいます。
パリの劇場に現れた金髪のヴィナス。
あっという間に花柳界でのし上がり、名声を得た少女。
その美貌と目も眩むような贅沢三昧で人々の羨望を集め、浪費と不品行のために悪名を轟かせていた、ナナという名の女。
精神性には共感できませんが、女としては眩しすぎる存在です。
愛情深くて残忍。己の身一つを武器にして成り上がり、今まで搾取されてきた仕返しのように男たちを踏み躙り、宝石を石コロのように扱い。自由で奔放で悪辣で純粋で。苛烈に生きて、醜い姿で死んでいった彼女。
【滅亡と死をつくる彼女の事業は完成されたのだ。場末街の溝泥から飛び立った蠅は、社会を腐敗させる黴菌を運び、ただ男たちの肩に止まるだけで彼らを毒したのである。それは良いことであった。正しいことであった。彼女は自分が属する階級、赤貧洗うがごとき人々や、社会から見棄てられた人々のために復讐したのだ。そして、彼女の性が、殺戮の野を照らして昇る太陽のように、栄光に包まれて昇り、一面に横たわる犠牲者の上に光り輝くときも、彼女は自分のしていることも知らぬ美しい野獣のような無意識を持ち続け、いつも優しい娘であったのだ。】
終盤のこの文章が特に印象深いです。
何でしょうね。上手く表現できませんが、偉人の伝記を読んだ後のような気分になります。
それくらい強烈にナナの魅力を伝えてくれる作品です。
ちなみに、一番好きなキャラクターはもちろんナナですが、次に好きなのは彼女の古い友人兼愛人の淫売婦、サタンです。綺麗な顔に反して言葉遣いは荒く、滅茶苦茶嫉妬深い半狂人。ナナとの爛れた関係が個人的には大いにツボ。
ナナの乱行の余波で身を持ち崩したサビーヌ伯爵夫人(ミュファの妻)も好きですね。こっちの話ももう少し詳しく知りたいと読む度に思っています。
以上。
本日も良い読書時間を過ごすことができました。やっぱり『ナナ』は良い…。
ナナのモデルの一人とされる実在したクルチザンヌのコーラ・パール、彼女の人生も中々に波瀾万丈なので、興味のある方はぜひ調べてみてください。ウィキペディアにもかなり情報が載っていて読み応えがあります。
『居酒屋』も読み返したくなりました。そのうち。
それでは今日はこの辺で。