ある社会が享受する余暇の量はその社会が使っている省力機械の量に反比例する | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

経済学者のE.F.シューマッハー(ドイツその後イギリスへ移住:1911-1977)は、その著「スモール・イズ・ビューティフル」(1973年刊)の中で、エネルギー危機を予言し、同年に起こった第1次オイルショックを的中させたとして有名であるが、彼は、また、その著の中で次の言葉を残している。


ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。


けだし名言である。

例えば、単純な例として、新たな省力機械が大量導入されて生産性が向上し、今まで8時間労働を強いられていたのが4時間で済んでしまい、その分が労働時間短縮になるかと思いきや、従前にも増して労働時間が増える。例えば8時間が12時間となる、といったぐあいにである。

省力機械の大量導入といえば、先ずは産業革命が思い出され、確かにそのとおりとなった。蒸気機関の発明である。これがあれば機械は24時間働くから、労働者は2交替制で12時間は働かされるし、管理職の現場監督も同様となるし、資本家の経営者もそれにつられて忙しくなる。

そのとき生産量は何倍にも増加し、つまり生産性が向上し、付加価値の増加で総所得も大幅に増加する。労働者にどれだけ配分されるかは別として、総じて皆が経済的に豊かになるのである。女工哀史で代表される日本の明治維新以降の殖産興業もこれと全く一緒だ。


しかし、その後において、特に戦後になってからは、労働時間の抑制で、1週間当たりの労働時間が減り、休日も1日から2日へと増えるなど、労働時間は減り続けていく。

一方、新たな省力機械も増え続け、生産性は向上を続けていく。高度成長期からバブル崩壊までは、労働者は少ない労働時間で高額の給与がもらえるという経済的豊かさを享受できるようになったのであり、戦後、先進諸国はどこも大幅な経済発展で、国民皆が経済的にとても豊かになった。

この段階で、先の名言(その時期は高度成長期)、

ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。

とはならず、その逆に正比例してよさそうなものではあったが、そうはならなかった現実がある。

労働者の場合、少ない労働時間で高い給料をもらうとなれば、付加価値を大幅に付けねばならない。付加価値を上げるに当たっては、肉体労働は直ぐに限界がくるが頭脳労働には限界がない。頭脳を使った濃密な仕事をしないことには高給は得られないのである。

また、経営者、管理職は、労働者の労働時間の減少により、合理性を追求せねばならなくなり、その施策遂行で多忙となる。つまり、合理化による更なる生産性の向上である。

その結果、人減らしが続けられ、労働者は仕事中に何度も息抜きをすることは決して許されなくなる。外回りで度々喫茶店に立ち寄って週刊誌を読んだり、早く仕事が切りあがって会社に戻るまでパチンコをやったりするという拘束時間中の余暇利用が全くできなくもなる。

こうなると、1日の仕事が終ればクタクタになり、心身を休めねばならぬ。拘束時間は減っても、休養時間を増やさざるを得ず、労働日が週6日の時代は日曜日をそれに充て、「享受する余暇の量」は、のんびり仕事をしていた時代に比べて減ってしまう。

なお、週休2日になってからは、土日の連休のうち1日を家族サービスで余暇を楽しむということが可能になったが、これは家族に対する「義務的サービス」という拘束時間であるからして、翌週の勤務に支障を来たし、その週末の残り1日は丸1日心身を休めねばならぬ。

こうして、自分一人で「ゆっくり楽しめる余暇の量」は確実に減らざるを得ないことになり、シューマッハーが言うとおりとなった。


バブル崩壊後はどうだろう。グローバル化の嵐で訪れた低付加価値産業の衰退、低成長という経済環境の大きな変化の下にあるが、新たな省力機械が依然として増え続けているものの、享受する余暇の量は減っているのか増えているのか。小生はその頃にサラリーマンから自営になったから、その変化を肌で感ずることができず、どんなものか分からない。


ここまでは、働き盛りの男を中心に述べてきたが、家庭の主婦の場合はどうだろう。家事に対する省力機械も戦後は目覚しいものがあり、享受する余暇の量は大幅に増えたと言ってよいと思えるのだが、亭主だけの稼ぎだけでは世間並みの経済的豊かさを享受できそうになく、暇な時間はパートに出たりして、女性労働力を増やしてきており、総体としては享受する余暇の量は増えてはいないのではなかろうか。いや、シューマッハーが言うように、主婦の場合も余暇は減っているのかもしれない。


ついでに子供の場合についても触れておこう。小生が餓鬼の頃は農繁期は別として、放課後は道草を食い、神社仏閣で皆と遊び呆け、家に帰って簡単な宿題をするだけで、余暇を思いっきり享受できた。でも、団塊世代(小生の時代)以降は大学進学がグングン増え、小学校から塾通いがだんだん増えてきて、子供の余暇は確実に減ってきている。いかにも気の毒である。


三度、シューマッハーの名言を掲げる。

ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。

小生は、今では高齢者となり、半農半商の営みをマイペースで進めているものの、どこへ出かけるにも携帯(スマホではない)を持たねばならず、農作業の途中で電話が鳴り、作業中断させられる。のんびり百姓を楽しむこともできない。

ところで、月に1回程度名古屋に出かけるが、電車の中で初めのうちは本を読み、途中で眠たくなってウトウトするのだが、周りの人は昔は小生と同じようにウトウトしている人が多かったが、今の若い人はスマホで何やしらやっていて、車内で寝る暇もなさそうだ。

IT革命により、どこにいても、どんなことでもできる、非常に便利になった社会。物凄く効率化した社会。これを上手に使いこなせば、享受する余暇の量が増えてよさそうなのだが、現実はどんなものだろうか。

今の若い人はちょっとした空き時間があったらスマホで情報を仕入れたり、ゲームを楽しんでいるのだろうか。そうして、上手に余暇を作り出しているのだろうか。
シューマッハーの名言は、これからの社会には当てはまらないのか、依然として適用されるのか。

どんなものだろう。


いつのことだったか忘れてしまったが、シューマッハーの名言を、これまた忘れてしまったのだが、何かの記事で引用したく、随分探したものの見つけることができなかった。それが、先月、偶然に見つかり、その名言だけを元にしてブログ記事を投稿してしまった次第です。

グローバル化と低成長経済下でもこれが言えるかについては、先に言ったように小生にはよく分からないが、今の世の中、何かと小忙しくなったきたのは事実ですよね。