「日本人ブランド」にもっと誇りを持とう | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

 “博多の歴女”白駒妃登美さんがその著『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』の中で次のように述べらておられます。


 私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな街を訪れましたが、そのたびに、“日本人ブランド”を感じていました。「日本人だから」という理由だけで、信用してもらえたり、とても親切にしていただきました。

 それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれていることからきていたと思います。

 敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからではないでしょうか。

 日本人ブランドを築いてくれた私たちの祖先。

 いま、未来の子どもたちに、私たちが何を遺すかが問われているように思います。(引用ここまで)


 ここで言う「ブランド」とは、いわゆる「他と区別できる特徴を持ち、価値の高い製品のこと」で、日本人ブランドとは「日本人は格別に信用が置ける、実に立派で尊敬に値する民族」という評価がなされていることを意味します。

 どうして、このような日本人ブランドが先人の手によって出来上がってきたか、その事例として、同著で幾つか挙げられていますが、トルコとポーランドの2か国について、かいつまんで紹介しましょう。


 まず、トルコ。トルコは親日国として知られていますが、次の事件があったからです。

 明治23年(1890年)9月に、トルコ海軍の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本沖を航行中に台風に遭遇し、岩礁に乗り上げて沈没。死者・行方不明587人、生存者69人。

 この生存者を救出したのが、串本の沖に浮かぶ大島の住民たち。たったの69人しか救助できなかったのですが、しかしその献身的な救出や手厚い看護、炊き出しなどに船員はいたく感銘しました。そして、船を失った彼らは日本の軍艦で本国に送り届けられます。また、その後においても串本町では、この事故で亡くなった人たちを悼み、慰霊塔や墓地を作り、5年ごとに今日まで慰霊祭が行われています。

 このエルトゥールル号の事故に際して日本人がなした献身的な救助活動は、トルコの歴史の教科書に載っており、トルコ国民は子供でさえ知っているのです。

 この事故があってから、ほぼ100年後の1985年3月12日、イラン・イラク戦争が激しさを増し、テヘランへの空爆が始まります。そして、イラクのフセイン大統領が「3月19日20時半以降、イランの上空を飛ぶ全ての航空機をイラク空軍は攻撃対象とする。」との声明を発します。

 イランに滞在する外国人は、それぞれの国の航空会社や軍の協力で脱出が計られましたが、日本はイランとの間に定期便がなく、自衛隊の海外活動も法律上不可能で、他国に援助を頼むしか手がありません。

 しかし、どの国も自国民の救出で手いっぱいの状態にあり、断られます。

 テヘランに取り残されている215人の日本人はどうなるか。

 そこで、人脈を頼りに2つのルートでトルコ政府に働きかけます。これを受けたトルコの首相はためらいます。日本人を優先すると、テヘランにいる自国民で救出できなくなる人々が何人も出てくる。しかし、首相は決断します。トルコ航空の民間機2機を日本人のために派遣することにしたのです。

 また、時間的に余裕がない危険な状態でフライとするのにパイロットや乗務員が確保できるか、この問題もありましたが、皆志願しました。

 こうして、タイムリミットの1時間45分前に日本人全員を乗せた救出機はトルコの領空に入りました。

 トルコ政府、トルコ航空の関係者が発する言葉は、「トルコ人なら誰でもエルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをしただけです。」

 なお、テヘランで自国の航空機に乗れなかったトルコ人たちは、陸路を3日かけてイランからトルコに入っていますが、この人たちも含めて、日本人を優先して救出したことに対しての非難は出なかったそうです。


 もう一つはポーランド。こちらは日本人が2度にわたってポーランド人を救っています。

 ポーランドは19世紀半ば以降、ロシアからの独立を果たさんと武装蜂起を繰り返します。その度に失敗し、何万人もがシベリア抑留の憂き目に遭います。1918年に一旦独立するも、2年後には再び戦争状態になります。独立後、ポーランド国内で、シベリアで孤児になっているポーランド人を救済しようという動きが生じたのですが、戦争状態に入ってしまっていてはポーランドがそれを行うことは不可能で、欧米各国に支援を求めたのですが協力は得られませんでした。

 そこで、ポーランドは1905年に日露戦争でロシアを破った日本に最後の望みを託したのです。これを受けた日本政府は日本赤十字社に打診。日赤は救済を即決。

 最終的にシベリアから765人のポーランド人孤児とその世話役としてポーランド人の大人70数名を随行させ、日本に招き入れます。孤児たちは飢餓と疫病に曝されていましたから、日本で手厚い看護を受け、その間に日本人看護婦が疫病に感染し殉職するということもありました。来日当初、青白く痩せこけていた孤児は、まるで別人のように元気になり、日本船でポーランドへ送られます。

 それから20年後の1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻します。そこで、レジスタンス運動が起きます。そのリーダーがイエジで、20年前に日本で世話になったシベリア生まれの孤児。他の孤児も仲間に入ります。

 彼らが隠れ家にしていた孤児院にドイツ兵が押し入り、捜査を開始します。このときイエジが助けを求めたのが日本大使館でした。急報を受けて駆けつけたのは井上益太郎書記官。ドイツ兵に毅然と言い放ちます。

 「ここは日本大使館が保護している孤児院です。同盟国ドイツといえども、勝手な捜査は認められません。」 

 しかし、ドイツ兵も簡単には引き下がりません。

 「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行っている。たとえ日本大使館の申し出であっても容認できない。」

 すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。

 「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しとして、日本の歌を聞かせてやってくれないか。」

 イエジたちが日本語で「君が代」と「さくら」を大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気に取られ、そして渋々立ち去ったのです。

 ドイツ兵は、日本がこの孤児院を保護しているのはどうやら本当のことだと感じ、同盟国である日本への配慮から、手を出せなかったのでしょう。

 イエジたちが日本の歌を歌えたのは、シベリアから送られて、しばらくの間、日本に滞在し、その間に日本の歌を覚え、その後も日本の思い出を忘れたくなかったからでしょう。また、彼らたちと日本大使館との交流が続いており、大使館員は彼らを信頼し、変わらぬ友情を持ち続けたからこそ、同盟国であるドイツに対しても、ここまで毅然とした態度を取れたのです。

 そして、1995年1月、阪神淡路大震災が日本を襲い、いち早く救助活動に駆けつけてくれたポーランド。その夏には被災した日本の子どもたちがポーランドに招かれます。翌年の夏にも子供たちが招かれ、このとき75年前にシベリアから日本に送られてきた高齢の孤児たちとの交流も行われました。

 それから6年後の2002年、天皇・皇后両陛下がポーランドを初めて公式訪問されます。そのあまりの歓迎振りに、同行した宮内庁の職員も驚きを隠せなかったといいます。

 ポーランド人のシベリア孤児が日本に送られて手厚い看護を受けている頃に日本に赴任し、その後6年間駐日フランス大使を勤めた詩人クローデルは、日本人を評して、こう言っています。「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でたた一つ、どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ。」


 いかがでしたでしょうか。この本には紹介されていませんでしたが、戦時中の美談の一つを別の所から紹介しましょう。

 それはパラオ(太平洋ミクロネシアの一部:スペインの植民地からドイツの植民地となり、第一次大戦後に日本が委任統治。植民地時代に西欧人が持ち込んだ天然痘や奴隷化により人口は10分の1に激減)です。

 日本が統治するようになって、道路を整備し、水道やガスを引き、学校を建設し、豊かな生活ができる環境を整えていきました。

 パラオの人たちは、「初めて人間として扱ってもらえた。こんなに生活を豊かにしてもらえて有り難い」と喜んだそうです。
 太平洋戦争が始まると、パラオの人たちは「俺たちも日本人として一緒に戦う」と言ったのですが、軍のトップから「貴様らと一緒に戦えるか。全員船に乗って即刻脱出せよ。」と言われたそうです。

 パラオの人たちは別の島に疎開しました。船が島を出るとき、日本人が海岸線に並び、手を振りながら「達者で暮らせよ~」と見送ってくれました。島から随分と離れたころ、パラオの人たちは気付きました。

 「そうか、自分たちは差別されたと思っていたけれど、実は日本人に助けられたのだ」と。そして船の中で「ふるさと」と「君が代」をみんなで歌ったそうです。

 その後、島に残った3万人の日本兵は全員戦死しました。

 戦争が終って島に戻ると、海が真っ赤だったそうです。パラオの人たちは、日本兵の死体を一体一体、墓に埋めたのです。そして自分の子供たちに「パラオは日本人に救われた」と、当時の歴史をずっと今日まで伝えてきました。

 こんな話はパラオだけではありません。たくさんあります。でも多くの日本人が知りません。

 もちろん戦争ですから、日本の軍隊もたくさん悪いことをやったと思います。ただ「それだけではなかった」ということも知っておかなければいけないと思います。

(㈱ピース社長:ピース小掘氏の講演録[みやざき中央新聞]より抜粋。これは、小掘氏がアジアチャイルドサポートの池間哲郎氏から教えていただいたお話として紹介されたもの)


 どうでしょう、ここにも立派な日本人ブランドが確立しているではありませんか。

 日本人は控え目で謙遜する、という文化を持っているのですが、こうした日本人ブランドに大いに誇りを持ち、一部の関係者だけに仕舞っておかず、積極的にPRして、日本国民皆に知らしめるべきことでしょう。

 トルコ観光に行き、ポーランドを旅し、パラオでバカンスを楽しむときに、現地の皆が日本人を大事にするに際して“こいつらは金目当てか?気をつけねばいかん。”であっては、お笑いもいいとこです。トルコでは教科書で皆が知っているのですし、ポーランドやパラオでは親から子へ、子から孫へと語り継がれているのですから、そうした所へ出かけていくときには、日本人はこれを承知の上で出かけねばいけないでしょう。少なくとも旅行パンフレットに書き込むべき性質のものです。

 日本における学校教育や家庭教育そして社会教育には、こうしたことが疎かにされているといえます。特に、日露戦争以降の大陸への進出と太平洋戦争時における日本人の行動は全てが悪であるとして、何もかも口を塞ぎ、本当のことを言うのを避けてきているのではないでしょうか。

 戦争は悪であるし、負けたのだから、当時のことは一刻も早く忘れたいという気持ちも分からないではありませんが、これは単なる逃げであって、何ら反省になっていません。

 戦争に関する歴史認識からの反省は別の機会に譲るとしますが、戦争とは切り離して、当時の日本人がとった善行というものに素直に目を向け、それを正しく評価するという作業をしっかり行わねばならないでしょう。

 日本人として日本人が日本人の誇りを持てなくなっている現代です。それは愛国心がないからとか、国家を歌わず、国旗を掲揚しないからとか、言われますが、それは結果であって原因ではないです。

 今やグローバル時代。世界のあそこにも、ここにも、そこにも、過去に現在に素晴らしい日本人が大活躍し、世界のあらゆる所でその地の人々を助け、幸せにし、豊かにした。また、外国人が日本に来たら高い技術が身に着けられた、他人を労わる高い文化を身に着けられた。こうした事例はそこら中にごろごろしています。日本人ブランドだらけなのです。

 これをテレビが新聞が教科書が積極的に取り上げ、社会教育、学校教育を盛んにしていくべきでしょう。企業PRとてそうです。物を売らんがなではなく、我が社が世界にどう評価されているかというイメージCMをしていただきたいものです。

 日本人の皆が、世界の人々に対して誇りを持てるようになれば、日本人皆が自分たちに自信を持てるようになるのでして、その結果、日本はますます発展し、愛国心も自然と湧いてくることでしょう。


 しかし、これは前途多難な面があります。大陸文化と平和ボケした島国・日本文化とは価値観に大きな開きがありますから、日本人の善行は「正直者が馬鹿を見る」ことにもなりかねないからです。

 といいますのは、先日ブログ記事にした「理不尽・不条理のこの世をどう生きるか 」の中で、大陸文化と日本文化とは大きな差があり、次のように論評したところです。


 「この世の理不尽・不条理は人間社会にあっては正道なのだ。よって、(日本人も)理不尽・不条理を当然のこととして受け入れるのが人間の生き方の第一歩だ。」とでもしないことには、はじまらないのではなかろうか。

 こう言い切ってしまった小生とて、これはいかにも寂しい話であるし、いきなり自分をアラビアやヨーロッパあるいは中国の文化レベルに持って行くことは不可能ではあるが、少なくとも「理不尽」「不条理」を是認せねばならないと思っているところである。(引用ここまで)


 ここでジレンマに陥るのですが、こと「日本人ブランド」の構築にあっては、たとえ「正直者が馬鹿を見る」ことになっても、それに甘んじて、日本文化を貫き通す必要があるのではないでしょうか。

 また、そのブログ記事の中で、本多勝一氏の著「極限の民族」から、世界と対比した日本文化の姿について、次のとおり引用しました。


 基本的な「ものの見方について」考えると、べトウィン(アラブの遊牧民)の特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。私たちの民族的性格は、アラビアやヨーロッパや中国よりも、ニューギニア(モニ族)により近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助教授(大阪府大)に、帰国してからこの話をすると、教授は言ったー「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」。(引用ここまで)


 お人好しで、大陸文化とは大きく異なった秘境文化を持つ日本。こうであるからこそ、世界的にもまれな特徴を持つ「日本人ブランド」が出来上がっていく、とも言えましょう。

 平和ボケしていると揶揄されている日本人ですが、これを逆手にとって、“世界の最後の秘境からの発信!”とでもやったらいかがなものでしょうか。

 ひょっとしたら、世界中の人々の基本的な「ものの見方について」を、日本文化方式に変えることができるかもしれません。

 それは全く不可能だ、と諦めたくはないです。一例として、近年、日本発の「もったいない」文化は、世界中にそれなりの広がりをみせていますからね。

 我々の祖先たちが作り上げてきた「日本人ブランド」に、さらに質量ともに大きく上乗せしていければ、世界恒久平和の夢までもが実現することになるかもしれません。


 最後は、めちゃオーバーな表現になってしまいましたが、 “博多の歴女”白駒妃登美さんの著『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』を読んだ中で、最も感銘を受けた「日本人ブランド」に関して、小生の思いを綴ってみました。

 今回も、とりとめのない長文に最後までお付き合いいただき、有り難うございました。