理不尽・不条理のこの世をどう生きるか | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

理不尽・不条理のこの世をどう生きるか

 (理不尽:強い力を持った者が一方的に主張を通すこと)

 (不条理:筋道が通らないこと、道理に合わないこと)


 この世は、理不尽であり、また不条理がいかにも多すぎる。

 これは、原始時代はいざ知らず、文明が発生後においては、いつの時代においてもたぶんそうであったろうし、これからも決して変わらないだろう。

 学生時代に随分と理不尽・不条理(こちらは、いわゆる不条理のほか、哲学的な“人生に何の意義も見いだせない人間存在の絶望的状況”を含む。)について考えた。

 社会人となり、役所勤めが21年間、別の新たな理不尽・不条理に出会い、また考えた。その後、家庭の事情で中途退職し、家業の薬屋の跡を継いでこの4月で、またまた21年経ったが、前とは違った理不尽・不条理に直面し、たいそう面食らった。


 この世は理不尽・不条理である。これを何とかして正さねばならぬ。こうした思いが強くて、それを何とかできないものかと、微力ではあっても、抵抗し、戦いに挑み、少しでも世を変えようと、もがいてきた。

 もっとも、この連続では体が持たないので、早々にあきらめたり、逃げたり、時には開き直ったりして、しのいできた。

 しかし、この世の中、あまりにも間違っていることが多すぎるから、これを正さねばならぬ、という気持ちだけは変わることなく持ち続けてきた。

 でも、還暦を迎えたころから、自分の心の中で、この考え方ははたして正道であろうかと、少々疑問を持つようになった。

 マルクスは共産主義社会を理想郷とした、かどうか知らないが小生は勝手にそう捉えている。しかし、遠い将来にあっても、共産主義であろうとなんであろうと、理想郷なんてものは人間社会には絶対に訪れないことは明白である。

 それを承知していながら、どうやら小生の心は今まで何らかの形の理想郷を追い求めていたようである。


 その自己矛盾に薄々気づきながら何年も経ってしまったのだが、高齢者となった昨年あたりから、これは開き直りの一種かもしれないが、「この世はたしかに理不尽・不条理ではあるが、これを甘んじて受け入れたほうがいいんじゃないか。」と心に変化が生じてきた。


 思うに、この世は総じて悪人ばかり。地球を広く眺めてみると、世界には様々な文化があって、これを聞きかじりしたところでは、大陸文化の多くは大なり小なり「人をだますのは正しい。略奪することは正しい。侵略し他民族を虐殺することは正しい。」となる。つまり悪事が正義なのである。

 世界的にもまれな天然の要塞、かつ、実り豊かな日本列島という幸運な場所に、つい最近まで他民族に侵略されることなく安心して暮らし続けてこられた平和ボケした日本人には、にわかには信じられないことではあるが、どうやら大陸では、とんでもないことが正道となるのである。

 その日本列島も、グローバル化の波でもって、もはや天然の要塞は外堀も内堀も埋められ、一気に大陸文化が侵入してきて、それに染まった輩がだんだん輩出され、そうした輩によって一般大衆はいいようにあしらわれはじめたと捉えてもよいのではなかろうか。


 人をだますことに関しては、政治しかり、経済しかり、そして小生の稼業に直結する医療しかり、事の良し悪しを判断するための情報を提供すべきマスコミしかりである。正直に申せば、小生の薬屋稼業しかりである。

 他人をだますだけならまだしも、それに止まらず、信頼すべき関係にある者の間においても、だまし行為がまかり通るようになるかもしれない様相が垣間見られるようになった気がする。

 だますことに関しては日本より数段上をいくであろう中国。その一例として、小生の友人のブログ「一日一笑:おもしろ情報館」に投稿されている中国笑話「ダマス」を紹介しよう。

 http://ameblo.jp/linshun55/entry-10606753471.html

 中国笑話には、日本人(少なくとも小生)には理解できないような、どぎつく、えげつないものが数多くあるのだが、この笑話は、笑話と言えども大陸中国人の物の捉え方を素直に表現したものであろう。

 ところが、日本人は、これを単なる笑話として捉え、信頼できる関係にあっては、かようなだまし行為なんてあるはずはないと思っているのではなかろうか。そうしたところに、日本人のだまされやすさがあると思ってよいだろう。


 だましと類似した言葉にうそがある。うそをついてはならない。これが正しいことで、うそをつくのは悪いこととされる。

 このことについては、家庭でも学校でも、くどいように言われて、小生は育ってきたし、今の子供もきっとそうであろう。

 うそをついてはならないという戒律を持った宗教が幾つもある。仏教にも五戒の一つとして入っている。それは、「不妄語」(うそをついてはならない)というものである。仏教と類似し、仏教より歴史が古いジャイナ教にも五戒があり、5番目の戒律が異なっているほかは全く同じであるのだが、ジャイナ教の戒律は出家修行者の間では非常に厳しく守られている。

 ここで、困ったことが発生する。うそをつかず本当のことのみを語っていて、はたして人間関係がうまく成り立つのか、平穏な社会を保てるのか、である。時と場合によって、うそをついたほうがいいケースが多々あるのではないか、という問題である。

 これに関してジャイナ教の聖典では、うそはご法度であるがゆえに「見たり聞いたりしたことで、それが他人を傷つけるものである場合には、修行者はそれを話すべきではない。」とされ、かかる場合は沈黙を守るのである。ところが、仏教では、「人を救うため、人を悟りへと導くために当面の嘘をつく」という方法「嘘も方便」が認められている。もっとも、ここで言う方便は「衆生を真の教えに導くために用いる仮の手段」であって、限定的ではあるが。


 しかし、仏教のように、原則の「不妄語」に対して一旦例外「嘘も方便」が作られると、一般大衆(在家信者)にとっては、我々が俗に使っている「嘘も方便」がまかり通ることになってしまうのは必然である。

 そして、「不妄語」の戒律は空文化する。こうなってしまうと、もうブレーキが利かなくなり、自分にとって都合がいいことであれば、平気でうそをついてしまうことにもなろう。これは、仏教国に止まらず、キリスト教国やイスラム教国とて同じだ。
 

 ここまで、「だます」と「うそ」について、小生の感ずるところを書いてきたが、もう一つ「自分の非を認めない」ことについて、非常に興味深い話を紹介しておこう。

 本多勝一氏の著「極限の民族」(1967年刊)のなかで、次のように書かれている。半世紀も前のことで、日本人事情も若干変わってきているのは確かであろうが、基本はさほど違いなかろう。(以下引用)

…(日本人が外国へ行って)、たとえ何かに失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのだ。100円のサラを割って、もし過失を認めたら、相手がべトウィン(アラブの遊牧民)なら弁償金を1000円要求するかもしれない。だからサラを割ったアラブはいうー「このサラは今日割れる運命にあった。おれの意思と関係ない」。
 …サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いないー「まことにすみません」。ていねいな人は、さらに「私の責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は、世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと「イタリアのサラならもっと丈夫だ」というようなことをいうだろう。

 私自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。「私の責任です」などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどない。日本とアラビアを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうもないささいなこと(体にさわった、ゲップをした、など)である限り「すみません」を日本人よりも軽くいう。この謝罪は…単なる習慣である。単なる習慣だからこそ、社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ。…

…日本人と確実に近い例を私は知っている。それは、モニ族(ニューギニア)とエスキモーである。モニ族は、私のノートをあやまって破損したとき…直ちに「アマカネ」(すみません)といって恐縮した。こうした実例を並べてみると、大ざっぱにいって、次のような原則のあることがわかるー「異民族の侵略を受けた経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。日本人やエスキモーやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験の少ない、たいへんお人好しの、珍しい民族である」。

 基本的な「ものの見方について」考えると、べトウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。私たちの民族的性格は、アラビアやヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助教授(大阪府大)に、帰国してからこの話をすると、教授は言ったー「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」。(引用ここまで)


 どうでしょうか。世界のものの見方、考え方の物差しは、日本とはまるで違う。これを十分に踏まえて事に当たらねばならないのである。

 よって、日本も対外折衝においては、アラビア・ヨーロッパ・中国と同じスタンスで行わなければならないのは当然のことであるし、企業社会においては中小企業でさえグローバル化しているのであるからして、既にその方向に大きく舵を取っている実態があると認識せねばならないだろう。

 地域社会の人間関係とて、まだ随分先のこととは思われるが、日本文化は順次失われていき、やがてアラビア・ヨーロッパ・中国と同じ文化に染まってしまうのではなかろうか。

 文化というものは、容易には変容しないものではあるけれども、いつまでも旧来の日本文化にしがみついていては、この先、企業内において、地域社会において、とんでもない目に遭うことがだんだん多くなることだろう。

 そして、残念ながら、この流れは誰にも決して変えられないと思うのである。


 この世は総じて悪人ばかり。いや自分は善人で、だますこともないし、うそもつかない、と主張する方もお見えだろう。
 しかし、そうした善良な行動をしていたとしても、それは自分で作った物差しで善悪を決めているだけで、その物差しがはたして正しいものかどうか。

 これに関しては、親鸞の「悪人正機」で、次のとおりコッパ微塵にされてしまう。
 
“衆生は末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば、「善悪」の判断すらできない根源的な「悪人」である。凡夫は「因」がもたらされ、「縁」によっては思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むのか解らないのも「悪人」である。”

 俗にいう善悪とは若干意味合いが違うが、俗世間における善悪に関しても「悪人正機」の捉え方にならわねばならないだろう。なぜならば、何が善で何が悪なのかは、本当のところは仏様か神様でなければわからないのであり、また、世界を眺めてみると、あそこの善はここでは悪になったり、あそこの悪はここでは善になったりと、国、民族によって物差しがガラリと変わるからである。


 話が本筋から若干それてしまったが、冒頭の「理不尽」「不条理」に戻ろう。
 この世は、「だます」「うそ」「自分の非を認めない」といったことが横行しているから、「理不尽」「不条理」を強く感ずることになるのではなかろうか。
 もっとも、民主主義社会においては、強い力を持った者が一方的に主張を通すとなれば、衆目の反発を買い、政権交替させられるし、そうした企業は立法府による新たな法規制でブレーキが掛けられるから、理不尽さは弱まっていよう。しかし、それを巧妙に覆い隠すような屁理屈でもって権力者はかわしてくるから、いよいよ「不条理」(筋道が通らない。道理に合わない)を強く感ずることになるのではなかろうか。


 で、あるのならば、少々結論を急ぐが、もはやこれは食い止めることができない性質のものであるからして、この際、もう一歩進めて捉えることとし、「この世の理不尽・不条理は人間社会にあっては正道なのだ。よって、理不尽・不条理を当然のこととして受け入れるのが人間の生き方の第一歩だ。」とでもしないことには、はじまらないのではなかろうか。


 こう言い切ってしまった小生とて、これはいかにも寂しい話であるし、いきなり自分をアラビアやヨーロッパあるいは中国の文化レベルに持って行くことは不可能ではあるが、少なくとも「理不尽」「不条理」を是認せねばならないと思っているところである。


 さて、既に高齢者になってしまっている自分は、これから先どう生きていけばいいのか。
 冒頭でも言ったが、半世紀ほど前の学生時代に哲学的「
不条理」(人生に何の意義も見いだせない人間存在の絶望的状況)について随分と考えたのであるが、今、再びそれを考えはじめた。容易にはその答えは見つからないだろうが。
 しかし、小生の今の思いでは、その答えは、若かりし頃の悲観的なものではなく、何だか楽観的なものになりそうな気がする。
それは、親鸞と同様に、その生きざまに大いに共感が持てる一休禅師の言葉に、

 “世の中は 食うて糞して 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりよ”

(注:これは大河ドラマ「花の乱」でのせりふで、実際は“世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり”)
と、あるからである。


 だらだらと、とりとめなく、年寄りの無責任なわがままを書きつづってしまって、気を悪くされた方が多いかと存じますが、「生きるとはどういうことか」を近年ときどき考えるようになり、そのなかで、表題にした「理不尽・不条理のこの世をどう生きるか」について、中途半端ではありますが自分の頭の中を少々整理してみたところです。

 読者の皆様の屈託のないご意見がいただけると幸いです。