霊魂はあまねく存在する。その正体とは?論理的考察に挑戦! | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

 霊魂、霊、魂といったものが確かにあるといった事例が数多く報告されていますし、なかにはその存在なくしては語れないような出来事もありますから、「霊魂はあまねく存在する」ということをインド哲学(論理学)の助けを借りて論理的思考と自然科学的推論により何とかして説明できないかと試みてみました。

 かなりの長文となりますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。


 まず、霊魂とは何かを定義しておかねばなりません。その存在の実態が全く分からない状況にありますから、これは人によってまちまちになっています。

 そこで、霊魂とは、勝手ながら小生の一存で次のとおり定義させていただきます。

① 無意識の心に働きかけて思考及び行動を左右する“超力”を持つ

② 永遠不滅の存在

③ 個々の生命体の誕生時にその個体に入り込み、その個体の死滅によって離脱する


 以上の定義について、少々補足説明します。

① 無意識の心に働きかけて思考及び行動を左右する“超力”を持つ

 この“超力”は、物質でもエネルギーでもない未知のものと考えられます。

 もし、物質あるいは物質に由来するものであったりすれば、生命体への働きかけは、引力のように定常不変なものとなり、働きかけがないことと同質なものになってしまうからです。

 また、“エネルギーの一種で未知のもの”とする考えがありましょうが、これは否定されます。エネルギーというものは、物質とは逆に不安定であり、他のエネルギーに容易に変換され得る性質のものですから、②「永遠不滅の存在」の説明が付かないからです。

 “超力”は、アインシュタインの相対性理論の枠外にある“何か”ではあるが、エネルギーと“超力”は相対関係にある、とするしかないでしょう。

 つまり、“超力”は、時としてエネルギーに変換され得る性質のものであり、無意識の心の動き(これは電気エネルギー変動として説明される)を左右する、というものです。

② 永遠不滅の存在

 “超力”は、物質やエネルギーと同様に、無限大の過去から無限大の未来に向かって存在し続ける。ただし、エネルギーと“超力”は相対関係にあるから、物質とエネルギーの相対関係と同様に特殊な条件下においては劇的に変動することが有り得るので、個々の霊魂はその限りでは永遠不滅ではない。

 なお、近年、宇宙はビックバンによって誕生したものとされ、その説に立てば、“超力”はその時に誕生したことになり、その後において物質とエネルギー間の劇的な変動は超新星爆発以外に起きていませんので、宇宙誕生以来今日までは、霊魂は不滅の状態にあると考えねばならないでしょう。(蛇足ながら、宇宙は、アインシュタインが直感したように定常であり、無限大の過去から無限大の未来に向かって存在し続ける、と小生は考えています。)

③ 個々の生命体の誕生時にその個体に入り込み、その個体の死滅によって離脱する

 霊魂が入り込む対象をヒトに限定するのは明らかな間違いです。ヒトの誕生はたったの数百万年前で、誕生当時はチンパンジーに近く、チンパンジーとの境目を付けることは不可能です。チンパンジーもその祖先は霊長類の元祖である原猿類との境目がなく、原始的哺乳類、脊椎動物、動物一般、最後には単細胞生物へと、全く境目なく行き着いてしまいます。

 また、霊魂の存在は、②からして地球上の生命誕生前からあったのですから、地球外生命にも、これは太陽系に限らず、全宇宙の生命体(その生存中は生命エネルギーが渦巻いている)に等しく有るとするしかないです。

 ここで、単細胞生物にも心があるか、という疑問が湧きますが、太陽光線が好きか嫌いかという類も、心があってのもの、とするしかないです。

 なお、石っころなど鉱物にも霊魂が宿るとする考えが一部にありますが、鉱物にはその物体内でエネルギーが渦巻いているとは考えられず、霊魂は宿らないとします。また、これを認めるとなると、砂粒、石英、二酸化ケイ素、原子、電子、最後には素粒子まで行き着きますし、これらに心があるかとなると否定せざるを得ないからです。

 ただし、地球と言う物体は地下でエネルギーが渦巻いていますので、広い意味での生命体と言え、霊魂が宿っているとしてよいです。太陽もしかりです。


 以上のことを前提にして、「霊魂は存在する」ということを論理的思考によって説明できないかとあれこれ試みてみました。

 まずは、“超力”が意識できるものではないことは、インド哲学で「真の自己」について論理的に結論が出ていますので、それをここで紹介しましょう。

 紀元前に誕生したインド哲学は、論理に重きを置き、誰かが構築したものを、その学派が千年、2千年もかけて、さらに論理を展開し、よりしっかりしたものに作り上げていくという流れがあり、論理に矛盾がありません。

 その中で、霊魂そのものではありませんが、それに極めて類似したものとして「アートマン=真の自己」という概念があります。漢訳で「梵我一如」の「我」がそれです。

 古代インド人は輪廻転生の世界観をしっかり持っていましたから、外見上の自分の身体は、はかない一時のものにすぎないが、真の自己は永遠不滅であり、③「個々の生命体の誕生時にその個体に入り込み、その個体の死滅によって離脱する」と考えました。

 ここからしばらくは、宮元啓一・石飛道子著「ビックリ!インド人の頭の中」より、インド哲学(論理学)の入門として解説された内容を引用・要約して紹介します。


 真の自己とは何か。
 僕は生まれてからこのかた、一貫して自分のことを自分であると考えてきた。そうした一貫した自己意識が厳然としてある以上、そうした一貫性(自己同一性)を支える何かが有る。その何かこそが、真の自己と言うにふさわしい。
 となると、真の自己は、変化する表面のはるか深部にあって、不変である何らかの実体であると推測される。
 ところで、困ったことに、「僕は悩んでいる」という場合、悩んでいるのは「僕の心」である。ならば、僕の心が真の自己かと言えば、心というものは千変万化して止まないものだから、そうはいかない。

 こうしたことから、身体も心もともに真の自己ではありえない。

 心身がどのように変化しようとも、僕という言葉を発する最も基本的な状況は、その言葉を発する人が意識を持っていること、つまり、対象は何であれ、それを認識していることである。
 よって、真の自己の本質は、認識主体(意識の主体、思考の主体などなど)であることに他ならない。そうした真の自己は知られ得るか。

 結論:真の自己は決して知り得ない。知り得ないことこそ、真の自己の本質的特性なのだ。「認識主体は認識されない。なぜなら、認識主体だから。」
 狐につままれたようなような話になるが、理屈はこうである。
 もし仮に認識主体なるものが認識されたとしても、その認識主体なるものは、その時点ではもはや認識主体ではなくて認識対象でしかなくなってしまっているということである。つまり、認識主体が認識対象となった瞬間に、認識主体は我々の背後にするりと抜けて回り込んでしまっているのである。ゆえに、認識主体は、まさに認識主体であるという本性からして、決して認識することはできないのである。
 そこで、真の自己をあえて言語表現するとなると、「〇〇は真の自己ではない」「□□は真の自己ではない」という命題を無数に連ねた連言命題とならざるを得ない。そして、
真の自己とは、我々が知り得る「全て」のものの「外」にあるもの、というところに行き着いてしまうのである。(引用・要約ここまで)


 いかがでしょうか。

 現代科学がさらに発展し、脳や神経細胞の働きが全て解明されたとしても、それは単なる認識対象にすぎず、認識主体は我々の背後にするりと抜けて回り込んでしまうのです。
 このことからして、物質とエネルギーの相対という現実世界の概念では語ることができないところの第三のもの、つまり“超力”が真の自己と深く関わっていると考えるしかないです。

 さて、ここで、“超力”が、どの程度①「無意識の心に働きかけて思考及び行動を左右する」かについて考えてみます。


 古代インドにおいては、輪廻転生の世界観をしっかり持っていましたから、②「永遠不滅の存在」の真の自己の必要性は、ことのほか思想面で重要性を持っていました。
 つまり、思想的には、因果応報、自業自得の倫理感を醸成する必要があり、そのためには、
行為(業)の責任を負う一貫した実体が必要で、行為主体と果報享受の主体とが、同じものとして連綿と継続的に存在してもらわねば、この倫理が成り立たないのです。

 例えば、為した悪事の責任を生前中に取ることなくこの世を去った者に入り込んでいた真の自己は、その業の内容を背負ったままで、何か新たに誕生した生命体に入り込んでから、その報いを受けなければならないのです。

 思想としては、これで済んでしまいますが、論理としては甚だ虚弱です。
 そこで、インド哲学において、このことに関して何か論理展開しているかを知りたかったのですが、先の著書には残念ながら何も載っていませんでした。

 インド哲学的に考えれば、真の自己に生前の業が“付着”しており、それが新たな生命体の元で剥がれ落ち、その生命体の心を左右するとでも言いたいのですが、こうした考え方は、どうやら屁理屈のようです。

 結論は、残念ながら「心に働きかけて思考及び行動を左右するものではない」となってしまうのです。

 どうしてそうなるかを次に説明しましょう。再び先に挙げた著からの要約です。


 ③のことから真の自己は無数に存在せねばなりません。

 その真の自己は、中身が詰まっているもの(物質様のもの)か、中身が詰まっていないものか、という問題が先ずあり、その論理展開は省略しますが、その結論は、「限定された大きさを持たず、中身が詰まっていないもの」となります。

 「限定された大きさを持たず」を言い換えれば、「限定されない大きさを持つ」つまり「真の自己は広がりを持つ」ということになります。

 よって、「無数の真の自己が世界に偏在する」ということになり、無数の真の自己は排除し合うことなく、重なり合って世界に偏在していることになります。
 なお、ここで言う「偏在」とは「個々の真の自己は広がりを持つ」という意味であって、地球表面に偏在するというものではありません。

 そして、知識、記憶と言った類のものは、身体と結び付いて生きているときにのみ真の自己に単に内属するだけものであって、身体が死んで真の自己が離脱した後には、真の自己からは全て消えてなくなってしまうと考えるしかありません。

 なぜならば、真の自己は認識主体だから、という理屈です。

 これが解脱であって、身体がなくなってしまえば、記憶も煩悩もそれ以外のありとあらゆるものが全て無くなってしまうというものです。

 こうして、無数に存在する真の自己に個性を見い出して区別できるのは、真の自己が生命体と結び付いているという条件のときだけになります。

 その条件を外してしまえば、いくら真の自己が無数にあったとしても、真の自己が唯一つしかないというのと何ら変わらなくなってしまいます。

 この論理の帰結は、「真の自己は唯一である」となります。

 ところで、宇宙の根本実在はブラフマン(漢訳で「梵我一如」の「梵)」と呼ばれています。

 その唯一の存在であるブラフマンは、当然のことながら自ら顧みれば、自らが真の自己となります。

 従って、ブラフマン(梵)とアートマン(我)は一体のもの(「一如」)というところに決着します。(要約ここまで)


 さて、解脱して「梵我一如」を知ることができればどうなるでしょうか。

 この先は哲学の範疇に入らず、思想そして宗教の世界で考えることですが、永遠に至福の境地に入ることができるとされています。
 ここでお断りをしておきますが、哲学というものは、その本質が実用を目指すものではない…良く言えば教養を積む、悪く言えば暇人のお遊び…ですから、哲学的成果は、実用なり思想に入ろうとする入り口で、我関せずとなってしまいます。

 もっとも、哲学者のなかには、その哲学的成果を基にして、思想や自然科学の道へ歩を進めていくことがありますが、これは明確に分けて考えるべきでしょう。


 ここまで、インド哲学に基づいて霊魂なるものは何かを探ってきましたが、「霊魂とは、永遠不滅のものとして存在すれど、ただそれだけのことであって、それが生命体の心や行動を左右するものではない」となってしまい、実学的には「存在すれど、無いことと同質のもの」つまり「無い」というところに落ち着いてしまいます。

 これでは困ります。

 蒸し返しになりますが、先に書きました「インド哲学的に考えれば、真の自己に生前の業が“付着”しており、それが新たな生命体の元で剥がれ落ち、その生命体の心を左右するとでも言いたい」(※1)という屁理屈が通らないかを今一度考えてみます。

 なお、ここからは自然科学的推論になります。


 生命体に渦巻いているエネルギーと霊魂が有する“超力”は、物質とエネルギーが相対であるように両者は相対であっていいはずです。
 どちらかが相手に何らかの働きかけをすれば、両者に何らかの変化が起きるのは必然です。(インド哲学で考える真の自己は、単なる認識主体であり、何ら働きかけをしないから変化しないと考えるのですが、その点が異なります。)

 霊魂も言ってみれば“超生命体”です。地球上の生命体の心から発せられた生命エネルギー(具体には電気エネルギー)でもって、“超生命体”に何らかの変化が起きる可能性は捨てきれません。その変化と言うものは、“超生命体”の“記憶”として残ると言えましょう。

 ただし、その“記憶”は「言語」として記録されたものではありえません。「言語」というものは、人類の作り出した符号であり、それを“超生命体”が解することは不可能ですし、“超生命体”はヒトだけに入り込むものではないですから、この点からも否定されます。伝えられ得るのは、喜怒哀楽という感情に限定されます。

 なお、“記憶”保存の形態として考えられるのは、“超力”の部分的歪みです。“超力”も生命エネルギーと同様に渦巻いていると考えるしかなく、その渦の極一部に歪みとしてエネルギー様のものが蓄えられていることになりましょう。

 そして、生命体が死んで霊魂が離れていったとしても、その“記憶(感情記憶)=歪み”は残ると考えるしかありまあせん。

 ただし、生前中に伝えられた全部の“記憶”が残っているかとなると、これは疑問視せざるを得ません。“超生命体”が有する“記憶”容量は有限であるとするしかないからです。推定される“記憶”は、生前中の強烈な感情と死の直前の感情に限られるとしていいでしょう。


 今度は逆に、新たに誕生した生命体に霊魂が入り込み、“超生命体”が有していた“記憶”を新たな生命体に“超力”でもって、流し込む事態を考えてみましょう。

 それは、いつ、いかなるときに、どうやって行われるのか。

 “記憶”を抱えた霊魂が、空間を漂った後、新たに誕生した何らかの生命体に入り込みます。これは偶発的なものとならざるを得ません。
 死んだ祖父母に宿っていた霊魂が誕生した孫に宿るなどということは、奇跡的な出来事であり、宗教の世界では有り得ることですが、自然科学には「奇跡」という言葉はないですから、これは否定されます。

 ところで、霊魂は、インド哲学(論理学)にならえば、「限定されない大きさを持ち、排除し合うことなく、重なり合って世界に偏在している」ことになりますが、その大きさ(広がり)は皆同じでしょうか。

 これは、現実世界と同様に様々な大きさのものが雑多に存在すると考えるしかないでしょう。例えば、ミクロン単位の極小のもの、ミリ単位のもの、メートル単位のもの、といったものの存在です。場合によっては、万Km単位(地球の大きさに相当)のものも想定されます。
 そして、メートル単位の霊魂は大型動物に入り込みやすい、ミクロン単位の霊魂はヒトの腸内細菌などに入り込みやすい、と考えるのが素直な解釈となります。


 でも、これには矛盾があります。ヒトなどの大型動物の発生を見たとき、受精卵ができたときには既にミクロン単位の生命体であり、この段階で、ヒトの腸内細菌が死滅して離脱した霊魂が、受精卵はほど良い大きさだからといって入り込むと考えた方が素直だからです。なお、母体から離れた(誕生)後に霊魂が入り込むとするのは無理があります。大型の魚はどうなのだ、ということになりますし、哺乳類でも熊の場合は、とても小さな赤ちゃんですから。

 この矛盾を解消するために、苦し紛れですが仮説(※2)を立てておきます。

 大型動物の発生時(受精卵)には、莫大な生命エネルギーが詰まっており、そのエネルギーはメートル単位の広がりを持ち、それに見合った広がりを持つ霊魂が入り込みやすい。というのは、生命エネルギーと“超力”には一種の共鳴現象様の作用が働くであろうから。

 この仮説に基づけば、腸内細菌に宿っていた霊魂がヒトに宿ることはなくなります。


 ところで、霊魂は、「空間を漂う」と先に述べましたが、好きな場所へ好きなように移動できるということは否定されます。それを肯定するには、霊魂に心(好き嫌い)があり、身体(移動手段)がある、とせねば説明が付かないからです。その説明は、あまりにも論理的に飛躍しすぎで、自然科学の範疇からはみ出してしまい、宗教の世界に入ってしまいます。


 こうして、前に宿っていた生命体からもらい受けた“記憶”を抱えた霊魂が、新たに誕生した概ね同じ大きさに生長する何らかの生命体に偶発的入り込みます。

 そして、新たな生命体の生命エネルギーと“超力”のエネルギー様のものが一種の共鳴現象様の作用をするなかで、新たな生命体が発した喜怒哀楽という感情を霊魂が認識したとき、これを切っ掛けとして霊魂が前の生命体からもらい受けていた“記憶”を吐き出す=歪みを解消して定常となる、と考えて良いのではないでしょうか。

 その“記憶”の吐き出しが喜であれば喜として心を動かし、怒であれば怒として心を動かす、ということになりましょう。それが逆の作用をしてくれたりして、因果応報、自業自得といった思想や宗教に都合の良い形になることは否定せざるを得ません。それは人間のご都合主義に基づくものだからです。


 さて、この仮説に基づく帰結はどんなものになるでしょうか。

 悪行を積んで私腹を肥やし何の罰を受けずにのうのうと暮らし、喜びいっぱいでこの世を去った極悪人の霊魂は、強い「喜」の“記憶”を持って、新たに誕生した全く他人の赤ちゃんに宿り、「喜」いっぱいの人生を暮らすことができる可能性が高い、となります。

 これとは逆に、その極悪人によって生涯にわたり不幸の連続で「怒」に満ち満ちた人生を送った人の霊魂は…。正に悪霊…。

 畏れ入りました。自然科学的に推論を重ねてきましたら、とんでもないところに行き着いてしまいました。しかし、これは必然でしょう。
 というのは、「善」「悪」というものは、人間がその時代その地域で恣意的に作った物差しを当てて勝手に判断するものだからです。自然科学には、「奇跡」という言葉と同様に、「善」「悪」という言葉もないからです。


 ところで、この推論は単なる「物語」です。と言いますのは、仮説(※1)の上に仮説(※2)を立てていますから、仮説の2段重ねで論理破綻を起こしているからです。加えて、そもそも霊魂の定義も仮説ですから、仮説の3段重ねになりますし、相対性理論の枠外で類似現象が起きるとするのも同類です。

 一見すると論理的推論が連続していて、さも正しい結論が出ているやに見受けられますが、ここまで長々とお付き合いいただきました方々には申し訳ないですが、これはまやかしに過ぎない「戯言(たわごと)」として切って捨てられる類のものなのです。


 しかし、「霊魂」なるものが確かに存在して、今、生きている我々に何かを働きかけようとしているとしか思えない面があり、それがどういう仕組みになっているのか、それを何とかして解明できないか、その挑戦の努力を汲んでいただければ幸いです。

 これについては、改めて別の角度から挑戦したいと思っています。もっとも、またまた仮説の複数段重ねになってしまうかもしれませんが。

 

 蛇足になりますが、仏教哲学は、基本的に無我説の立場にあり、真の自己は無いと主張されます。これは、釈迦が「非我=心身を構成するどの要素も常在不変の自己ではなく、頼むに値しない」を説いたことに起因します。釈迦の没後に仏教が成立してから、「非我」を「無我」にすりかえてしまい、そもそも真の自己なるものなど無いとしたのですが、しかし輪廻転生すると言うのですから、これは論理矛盾しています。宗教には論理は不要ですから、信者にとってはこれでいいのだ、となりましょうか。