<どこよりも詳しい>(新)李徳恵姫(徳恵翁主)関連年表!!その1:1910~1929年まで | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

流じゅーざの『日韓・朝韓』

「にっかん・ちょーかん」ペースで朝鮮関連とオレの住んでいる「タイ」の話題そして女の子の話題を発信します♪
前ブログ「☆正面からぶち当たって見る韓国☆」が閉鎖されたのでこちらで再開です♪

1928年年末に一人で里帰りした徳恵姫。珍しく満面の笑みを見せる

 

 

読者登録してね

「いいね」、「リブログ」、「ペタ」大歓迎です( `ー´)ノ

 

バンコク在住のじゅーざです。

 

本年表は

 

  朝鮮王朝最後の王にして大韓帝国初代皇帝だった高宗の末娘である李徳恵(り・とくけい)姫(韓国での呼称は徳恵翁主)の生涯の年表です。

 

以前、アップした李徳恵姫(徳恵翁主)関連年表ですが、その後確認できた事実などを加えてアップデートしたものを掲載します。(最終更新日:2017年4月11日)

 

本文は長くなるので1930年を境に2つに分けて掲載します。

 

この年表については世界で一番詳しいものと自負しています。

 

 

<追記>

旧来の説では、

 

  李徳恵姫(徳恵翁主)は日本に人質として盗られていた!という言い方が普通

 

でしたが、今回の年表をご覧いただければわかるように1925年に日本留学後に

 

  1929年まで5年間で6回「里帰り」してます…

 

特に先日見つけた記事によると1928年の年末には学習院の冬休みを利用して1人で(当然お供はいますが)京城に戻っています。その後帰京に至るまで公式行事の記事が無いので、

 

  昌徳宮ないし徳寿宮で母親である梁貴人と多くの時間を過ごしていた可能性が高いです。

 

さらに前年の1927年4月の純宗(大韓帝国最後の皇帝。初代李王)の一周忌では

 

  福寧堂で母親である梁貴人と過ごしたという記録がある

 

ので、

 

  徳恵翁主は母親と引き裂かれて可哀想ニダー!!

 

という批判は

 

  あまり当たらないですね。

 

むしろ、宮廷儀式や晩さん会に梁貴人は呼ばれていないことなども判明しています。

 

  これは朝鮮王朝のしきたりとしての梁貴人の地位(退位後の王様のお妾さん)を示す出来事でしょう。

 

ちなみにトップに挙げた写真は現存する徳恵姫の写真の中では一番大きな笑みを見せた写真です。

 

  一人で(お付はいるけど)京城に戻ったのが嬉しかったんだねえ…

 

(´・ω・`)

 

---------------------------------

年表(1)

1910年

  08月29日  日韓合併

1912年

  05月06日  高宗徳寿宮での謁見式後、福寧堂を訪れる(高宗実録)NEW

  05月25日  徳恵姫が徳寿宮で生まれる。母は梁氏に福寧堂の号を賜う(高宗日録)NEW

  05月26日  高宗が福寧堂を訪れる(高宗日録)NEW

  05月27日  高宗が李熹公ら親族を咸寧殿福寧堂で引見して産後の宜しきを祝う(高宗日録)NEW

  06月14日  高宗が李熹公ら親族、勅任官らを引見し賜与を行う。徳恵姫の三七(産後21日のお祝い)を行う(高宗実録)NEW

  07月13日  高宗が徳恵姫を徳寿宮咸寧殿(王の寝殿)に移す(高宗日録)MODIFIED

1916年

  04月01日  徳恵姫は高宗が徳寿宮内即祚堂に設けた幼稚園に入園。京口貞子と張玉植の両保母に扱いを任せる(高宗日録)MODIFIED

1919年

  01月21日  高宗崩御

  03月01日  3.1運動

  03月03日  高宗の国葬

  11月09日  李堈公が上海亡命を図るが中国安東県で捕まる

1920年

  06月03日  東亜日報が徳恵姫の勉学の様子を報道。昌徳宮観物軒に移ってたのが分かる

1921年

  04月01日  徳恵姫、日の出小学校2年に編入(東亜)(京城)

  05月04日  徳恵姫、「徳恵姫」の名前を賜る(純宗実録)MODIFIED

  05月07日  徳恵姫、麻疹で学校を休み升麻葛根湯を服用(東亜)

  05年28日  徳恵姫、麻疹から回復(東亜)

1922年

  03月11日  徳恵姫の日出小学校入学に応じて。京城学校組合に金400円を寄付する。理由は德恵姫の入学(純宗実録)NEW

  03月30日  純宗が徳恵の友人である日出小学校の韓孝男、閔龍児にそれぞれ100円を賜う。徳恵姫の学友だから。(純宗実録)NEW

  04月28日  徳恵姫、李垠夫妻の観見の儀。儀式終了後に夫妻と御接見(京城)MODIFY

  10月10日  閑院宮載仁親王が日出小学校に台臨。徳恵姫の授業など参観(閑院)

1923年

  03月03日  徳恵姫、日の出小学校尋常科を終了し、高等科に進む

  03月30日  純宗が日出小学校の校長と担任教師に賞品を賜う(純宗実録)NEW

  06月28日  純宗が日出小学校の保護者会に30円の寄付を行う。(純宗実録)NEW

  08月17日  徳恵姫、夏季休暇で元山に海水浴に行く

  10月頃    宮城道雄、佐田至弘の紹介で徳恵姫作詞の「雨」「蜂」に作曲する

  11月?      「徳恵姫御作童謡発表会」開催(雑誌『朝鮮』105号)

1924年

  04月16日  野口雨情、藤井清水、権藤円立が渡鮮(~05月05日)

  04月24日   佐田至弘が徳恵姫御作の「雨」を東京日日新聞で紹介する。

  05月初旬   野口雨情、徳恵姫に謁見し「雨」ともう1作の歌詞を賜る。

  05月05日  日出小学校の端午の節句の催しで徳恵姫御作の「びら」の童謡踊を試演

  07月11日  純宗から日出小学校以下教職員に金などを賜う(純宗実録)NEW

  08月頃         黒澤隆朝、葛原しげる、印牧季雄が朝鮮訪問。黒澤が「雨」「蜂」「びら」「ねずみ」の作曲を行う

  09月03日  黒澤隆朝、日出小学校で「雨」「びら」を徳恵姫の御前で演奏

1925年

  03月13日  徳恵姫の学習院留学が報道される(京城)

  03月15日  篠田李王職次官が徳恵姫の縁談の噂を否定

  03月21日  東京放送局(JOAK)が徳恵姫の「はち」を放送。(歌は牧瀬数江)(毎日)

  03月22日  徳恵姫、日出小学校教職員及び同級生110名を昌慶宮に招いて午餐会を開く(京城)

  03月23日  日出小学校で徳恵姫の送別会が開かれる。「ねずみ」「雨」「びら」の合唱・斉唱あり(京城)

  03月24日  純宗から徳恵姫に日本留学を命じる(純宗実録)NEW

  03月27日  純宗から日出小学校職員に特に記念品を賜う(純宗実録)NEW

  03月28日  徳恵姫、日本に向けて京城を出発(『李王宮秘史』、京城)

  03月28日  黒澤2度目の渡鮮。釜山からの列車で小学生が徳恵姫の「雨」を歌うのを聞く

  03月30日  徳恵姫、東京駅到着。李垠邸に入る(朝日)

  03月     純宗から日出小学校へ徳恵姫在学の記念として千円寄付されるNEW

  04月06日  徳恵姫、宮城に参内。その後梨本宮邸を訪問

  04月08日  徳恵姫、女子学習院に本科中期2年のクラスに転入

  04月13日  徳恵姫、女子学習院の始業式に参加

  04月29日  徳恵姫、皇太子殿下の誕生日に招かれる

  05月          『金の星』7巻5号が徳恵姫の「雨」の歌詞を掲載

  05月12日  読売新聞が徳恵姫の日常と「びら」の歌詞を掲載(読売)

  05年15日  徳恵姫の家庭教師として中川糸子が李王職より任命される。(読売)

  05月15日   李堈公が学習院を訪問し、徳恵姫の授業を参観。(学習院五十年史)

  05月30日  李垠・方子夫妻と徳恵姫、梨本宮邸でテニスをする

  06月09日   李方子が学習院の体操会(体育祭)を参観(学習院五十年史) 

  11月16日  徳恵姫ら秋季遠足で埼玉県膝折地方(現朝霞市膝折町)に芋掘りに行く

1926年

  01月13日  東京放送局が徳恵姫の「雨」「はち」を放送。(歌は牧瀬数江)

  03月01日  徳恵姫、李垠夫妻と共に京城に出発。純宗の見舞が目的(京城日報)

           (帰郷1回目)

  03月02日  徳恵姫、李垠夫妻と共に下関到着。夜に釜山へ渡る(京城日報)

  03月03日  徳恵姫、李垠夫妻と共に京城到着

  03月04日  日出小学校小川吉太郎訓導が昌徳宮を訪問、歓迎会の日取り打ち合わせし、7日に決定。

  03月06日  徳恵姫、李王・李垠夫婦らと水入らずで晩さん会。

  03月07日  日出小学校にて徳恵姫の歓迎学芸会を開催(京城日報)

  03月11日  徳恵姫、李垠夫妻と共に京城出発

  04月08日  徳恵姫、純宗の病状悪化で李垠と京城に入り、昌徳宮に見舞う。

           (帰郷2回目)

  04月11日  徳恵姫、母福寧堂と共に純宗の快癒を祈願する(東亜日報)

  04月13日  李方子が京城に到着。

  04月25日  純宗、死去

  05月08日  徳恵姫の帰京が決定。(徳恵姫は大造殿興福軒に滞在)(京城)

  05月10日  徳恵姫、京城を出発して東京に戻る

  06月10日  純宗の国葬。

  06月27日  徳恵姫、新宿御苑の皇室の集まりに梨本宮伊都子とともに参加する

  08月29日  東京朝日新聞が徳恵姫と山階宮藤麿王の婚約の噂を報道

  12月01日  『王公家規範』が皇室令で制定される

1927年

  03月03日  徳恵姫、明治神宮外苑日本青年会館大講堂で行われた日本児童親善会主催の「青い目のお人形さん歓迎会」に列席

  04月04日  徳恵姫、学習院中期4年に進級(釜山)

  04月07日  徳恵姫、純宗の一周忌のために東京を出発。10日に京城入り。

           (帰郷3回目)

  04月14日  純宗一周忌。徳恵姫は尹大妃、方子と魂殿の奥で哭礼を行う。

  04月15日  徳恵姫、李垠夫妻と京城出発を東京に戻る。

  04年17日  厳賛侍御用掛が徳恵姫の縁談を否定(釜山)

  05月23日  李垠夫妻、欧州歴訪に出発(~1928年04月09日)徳恵姫も港で見送りする

  06月11日  徳恵姫と山階宮藤麿王殿下の縁談進行中との報道(京城)

  06月13日  徳恵姫と山階宮藤麿王殿下の縁談進行中との報道(釜山)

  11月04日  徳恵姫、明治神宮外苑日本青年会館大講堂で行われた日本児童親善会主催の「日本人形の送別会」に列席(アサヒグラフ)

  11月17日  徳恵姫、学習院児童生徒470人と立川の飛行第5連隊の遊覧飛行観覧(『日本人形玩具辞典』)

1928年

  04月09日  徳恵姫、神戸に李垠夫妻を出迎える

  05月01日  徳恵姫、純宗の2周忌のため京城到着(~5月12日)

           (帰郷4回目)

  12月28日  徳恵姫、冬休みを利用して帰国。昌徳宮に入る。

           (帰郷5回目)

1929年

  01月05日  徳恵姫、下関帰着。特急で東京に戻る。

  05月30日  徳恵姫の母、福寧堂梁貴人死去(3年前から乳癌で療養)

  06月02日  徳恵姫、梁貴人の葬儀参列のため京城入り。滞在は楽善斎乾物軒。(徳恵姫帰郷第6回)

           (帰郷6回目)

  06月05日  徳恵姫、梁貴人の葬儀に参列

  06月07日  徳恵姫、梁貴人の墓所に参ったのち東京に向かって出発

  07月      日本ビクターから徳恵姫作詞の「蜂」「雨」のレコードが発売(作曲は宮城道雄)

  11月28日  徳恵姫、李王垠・方子妃や他の皇族と東京音楽学校創立50周年記念祝賀会に参加

 

---------------------------------

 

李徳恵姫関連の年譜では、

 

  新城道彦氏が韓国言語文化研究第14号に掲載した論文「王族および公族関連年表」(2007年)

 

を書いていますが、本年俵はそれよりも詳しく、また欠落部分を埋めています。

 

 

こんかい終わり

 

 

ブログランキング参加中♪クリックしてね☆

韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

 


タイ(海外生活・情報) ブログランキングへ