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バンコク在住のじゅーざです。
前回からの続きです。
・李徳恵(徳恵翁主)はマジ「アイドル」だった?黒沢隆朝が聞いた歌とは…(その1)
有名なドイツの童曲『山の音楽家』の日本語歌詞を作詞した作曲・作詞家水田詩仙こと黒沢隆朝が、朝鮮を訪問した際に
大韓帝国皇帝高宗の末娘である李徳恵(徳恵翁主)
の書いた
いくつかの詩に作曲し、京城時代の李徳恵(徳恵翁主)の目の前で演奏して差し上げたそうなのです。
(今のところ本件言及しているような人間はオレくらいしかいませんが…)
黒沢隆朝本人がその際の顛末について、前回紹介した『可愛い童謡 第9集』に書いていますので、ご紹介しましょう。以下引用です。()内はオレによる注釈です。
「徳恵姫の御作其の他
大正13年(1924年)の夏、同志葛原しげる、印牧季雄両氏と三人で朝鮮に講習旅行に乗り出す事に話が成立しました。之を斡旋されたのは京城の佐田草人君で、君は内鮮児童愛護連盟の首途に童謡に異常の天分を有たせられる徳恵姫様を詩の女王として内地の諸都市の児童及び教育家に巡回講演を続けながら紹介の労をとって居られたのであります。
其の様な関係から徳恵姫の御真筆の童謡、御日常其の他の御写真も拝見し、尚
御作4篇へ作曲を試みる光栄を得、
後京城に於いては講習会の冒頭にこれを課す事になりました。
(中略)
私は之れ以上姫様について申し上げる必要もありませんが、
其の年の9月3日、日の出小学校で姫様にお目にかかり、御話など申し上げた記憶を辿って見たいと思います。
(中略、金剛山旅行の思い出)
山から帰って両氏は内地へ、私は満州を迂回する為に一人滞在する事になり翌日佐田君と姫様の学校に俥(車)を急がせました。やがて大山校長の先頭で尋五女教室に導かれ、国史の授業を受けられる姫様の御勉強振りを拝見しました。
一目してそれとお察し申し上げられる程、高雅端麗のお姿は教室の畧々(略々の旧字。ほぼの意)中央に拝されました。校長の好意的な計らいででもあったでしょう。彼は教壇に私を招じて紹介し、次の瞬間には大型のオルガンが持ち運ばれ、いや応なしに御挨拶の後、
姫様の御作「雨」「ビラ」の2曲をお聞かせする事になりました。
姫様には始終黒い円らなお眼に笑みを湛えて居られました。山の旅装をといたままの疲れ切った私は息切れがして、さなきだにどす黒い声は日に焼けた顔から怖れ多い様な光景を呈したのであります。」
…
ちなみに、黒田が作曲をつけた4曲とは過去に紹介したことのある
「ビラ」
「雨」
「はち」
の3曲、そして
「ねずみ」
の4曲ですが、「ねずみ」の曲は現存しているか不明です。
なお、「雨」と「はち」は先に箏と尺八による曲で宮城道雄が作曲していますが、前回書いたように黒田が新しく作曲し直したようです。
ちなみに黒田の朝鮮行きをアレンジした佐田草人氏については詳細は不明です。(もしどなたかご存知なら教えてーー!?)現在確認できるのは大正時代前後の朝鮮関係の雑誌にいくつか文章を投稿をしていた人、というくらいですね。
また黒田の朝鮮行きに同行した葛原しげるは超有名な童謡『夕日』(♪ギンギンギラギラ夕日が沈む♪)の作詞者。印牧季雄氏は学校舞踏の専門家のようです。
本件は次回が最終回になります。
こんかい終わり
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