続きです。『豊公伏見城ノ圖』の町名番号に従って行きます。
二一番目は「桃山長岡越中北町・東町・西町」です。圖には「長岡越中守」と記されています。長岡越中守忠興の屋敷がありました。利休七哲の一人で武将としても茶人としても優秀な人物でした。父親はあの長岡兵部大輔藤孝公です。この地は現在、小学校や家があります。
-桃山長岡越中東町-
二二番目は「桃山町永井久太郎」です。圖には「永井右近太夫」「堀久太郎」と記されています。永井右近衛将監直勝・堀左衛門督秀政らの屋敷がありました。前者は小牧長久手合戦で池田紀伊守恒興を討ち取った勇将、後者は「名人久太郎」と謳われた織田前右府公の側近です。この地は現在、農水省の施設や桓武天皇柏原陵があります。
-桃山町永井久太郎-
桓武天皇の陵墓と比定されている柏原陵ですが、異説もあるそうですね。大昔の事ですし発掘調査も出来ませんし、真実は永遠に謎のままなのでしょう。
-桓武天皇柏原陵-
二三番目は「景勝町」です。圖には「会津中納言景勝」と記されています。羽柴権中納言景勝の屋敷がありました。嘗ては北陸で覇を唱えた上杉氏の当主で、五大老の一角ですね。この地は現在、住宅地となっています。
-景勝町-
二四番目は「桃山町大蔵」です。圖には「長束大蔵少輔」と記されています。長束大蔵大輔正家の屋敷がありました。元は惟住五郎左衛門尉の家臣で、羽柴政権では五奉行の一員として金銭や兵糧を一手に引き受けた官僚です。この地は現在、住宅地となっています。キャッスルランドも所在地はここになっています。
-桃山町大蔵-
-長束屋敷推定地-
二五番目は「治部町」です。圖には「石田治部少輔三成」と記されています。石田治部少輔三成の屋敷がありました。言わずと知れた羽柴政権の柱石で、羽筑に対する諸侯からの不満を一身に引き受けた五奉行の行政担当官僚です。この地は現在、阪高の裏手となりマンションや工場が並んでいます。
-治部町-
二六番目は「丹波橋町」です。圖には「桑山丹波守」と記されています。桑山丹波守なる人物の屋敷があったという説が言われてきましたが、疑問もあるそうです。この時代の桑山氏ということは、修理大夫重晴のことでしょうかね。元は惟住五郎左衛門尉長秀の家臣で羽柴家に移った人物らしいです。この地は現在、住宅や店が並んでいます。
-丹波橋町-
実はこの東隣に、木幡山伏見城の枡形がありました。現在でもその形が保存されています。
-枡形-
二七番目は「桃山福島太夫北町・南町・西町」です。圖には「福島左ヱ門太夫」と記されています。福島左衛門尉正則の屋敷がありました。羽筑子飼いの武将で、賤ヶ岳合戦での活躍は有名ですね。この地は現在、住宅地となり児童公園もあります。
-桃山福島太夫北町-
二八番目は「桃山町島津」です。圖には「島津右馬頭」と記されています。島津右馬頭以久の屋敷がありました。島津四兄弟の従兄弟で、「島津肩衝」は彼が羽柴武蔵大納言に献上したことから付けられた名前だそうです。この地は現在、住宅地となり、キャッスルランドへ行く道が貫いています。
-桃山町島津-
二九番目は「桃山町古城山」です。圖には「御本丸」と記されています。城の中心部とも言うべき本丸がありました。この地は現在、伏見桃山陵・伏見桃山東陵があります。
-桃山町古城山-
伏見桃山陵に辿り着くまでの道に、伏見城の石垣が展示されています。
-石垣-
この道中で、桃山町二之丸があります。木幡山伏見城の二の丸があったのはここでしょう。
-桃山町二之丸-
伏見桃山陵へ行くには、長い階段を上がる必要があります。流石「木幡山」ですね。見掛け上はしんどそうですが、整備されているので上り易かったです。階段を上りきると目の前に、陵墓が現れます。ここが明治天皇のお墓であり、木幡山伏見城の本丸です。
-階段-
-陵墓(本丸)-
-本丸からの眺望-
伏見桃山陵から東へ坂を下ると、東陵に辿り着きます。ここは照憲皇太后の陵墓です。藤原北家一条氏の末裔で明治天皇の正妻ですね。この地は木幡山伏見城の名護屋丸に当たります。
-伏見桃山東陵(名護屋丸)-
三十番目は「桃山紅雪町」です。圖には「岡江雪」と記されています。板部岡江雪斎の屋敷がありました。後北条氏、次いで羽筑に仕えた、「板部岡」が苗字の外交僧です。国宝の江雪左文字は元々彼の物らしいです。この地は現在、住宅地となっています。
-桃山紅雪町-
一旦ここまで。閲覧ありがとうございました。