#05-05 木幡山伏見城 | 中川藤兵衛尉の城巡り日記

中川藤兵衛尉の城巡り日記

摂津国在住の城郭愛好家による城巡り報告です。誤りなどございましたら、正しい情報を頂けると幸いです。手書き縄張り図以外は、画像転載禁止とします

 続きです。『豊公伏見城ノ圖』の町名番号に従って行きます。

 

 三一番目は「深草大亀谷安信町・東町」です。圖には「浮田安心」と記されています。宇喜多土佐守忠家、法号「安心」の屋敷がありました。「謀聖」として恐れられた宇喜多和泉守直家様の弟で、羽柴備前宰相秀家の叔父で後見人です。兄・和泉守直家に忠実に使えるもその実信頼せず、対面する際は暗殺を恐れて鎖帷子を着ていたなどという話が残っていますね。後の話になりますが、彼の嫡子・右京亮詮家(あきいえ)は宇喜多騒動後に宇喜多家を離れ、関ヶ原合戦では東軍に属しました。その功で石見国浜田、次いで同国津和野に封じられました。聞いたことありますかね。坂崎出羽守直盛というんですけど。この地は現在、住宅地となり児童公園もあります。

 

 

 -深草大亀谷安信町-

 

 圖での宇喜多屋敷の位置関係と南隣・紅雪町との関係から、この区画が土佐守忠家の屋敷と思われます。

 -宇喜多屋敷推定地-

 

 三二番目は「桃山町日向」です。圖には「水野日向守」と記されています。水野日向守勝成の屋敷がありました。「鬼日向」と呼ばれ恐れられた勇将で、一時期は筑後の立花侍従統虎に仕えてたみたいですね。この地は現在、住宅地・マンションとなっています。

 

 -桃山町日向-

 

 三三番目は「島津町」です。圖には「島津兵庫頭」と記されています。島津兵庫頭義弘の屋敷がありました。島津四兄弟の二番目で、「鬼島津」の異名で恐れられた屈指の猛将です。この地は現在、阪高の裏手となり工場や住宅があります。

 

 -島津町-

 

 石田治部と島津家とって良好な関係にあったんですよ。治部町と島津町とが隣接しているのは、町割り奉行の計らいでしょうか? 友達が少ない石田治部の為の。

 

 三四番目は「大津町」です。圖には「高木大津」と記されています。高木主水助清秀の屋敷がありました。織田弾正忠信秀に仕えた老人です。その後は織田家家老佐久間右衛門尉信盛、織田前右府公、羽柴武州大納言と渡り歩いたみたいです。この地は現在、住宅地となっています。

 -大津町-

 

 高木主水助の屋敷の南隣は、「京極丹後守」の屋敷です。これは京極丹後守高知のことでしょう。この屋敷で後の丹後守高広が出征したと言われています。

 -京極屋敷推定地-

 

 三五番目は「竹中町」です。圖には「竹中貞右ヱ門」と記されています。竹中貞右衛門重定の屋敷がありました。羽筑の軍師・半兵衛重治の従兄弟らしいです。この地は現在、住宅地となってマンションや生協があります。

 

 -竹中町-

 

 三六番目は「桃山筒井伊賀東町・西町」です。圖には「筒井伊賀守」と記されています。筒井伊賀守定次の屋敷がありました。筒井順慶の養嗣子で織田前右府公の娘婿です。この地は現在、近鉄丹波橋駅ああり大いに栄えています。

 -桃山筒井伊賀西町-

 

 三七番目は「桃山羽柴長吉東町・中町・西町」です。圖には「羽柴長吉」と記されています。羽柴備中守長吉の屋敷がありました。池田紀伊守の三男で、羽筑の養子です。この地は現在、近鉄と京阪とに挟まれた便利な地となっています。

 -桃山羽柴長吉西町-

 

 三八番目は「桃山毛利長門東町・西町」です。圖には「毛利安藝守」と記されています。どっちやねんな。9.毛利町と同じく毛利長門守秀就の屋敷がありました。この人、後に松平長門守を称するみたいですわ。この地は現在、高台の住宅地となっています。

 -桃山毛利長門東町-

 

 三九番目は「桃山町下野」です。圖には「下野様」と記されています。松平下野守忠吉の屋敷がありました。器量人の美青年だったようです。この地は現在、住宅地となっています。

 -桃山町下野-

 

 四十番目は「桃山町治部小丸」です。圖には「石田治部少輔」と記されています。ここに治部少丸が置かれていました。この地は現在、住宅地となっています。

 -桃山町治部小丸-

 

 伏見桃山陵へ続く道から見た治部少丸推定地です。

 -推定地-

 

 一旦ここまで。閲覧ありがとうございました。