続きです。『豊公伏見城ノ圖』の町名番号に従って行きます。
十一番目は「深草大亀谷内膳町」です。圖には「中川内膳」と記されています。中川内膳正秀成の屋敷がありました。中川内膳は父に羽筑と義兄弟の契りを結んだ茨木城主・中川瀬兵衛尉清秀を、兄に茨木城・三木城主の中川右衛門尉秀政を持つ血統の良い武将です。自身も播磨国三木、次いで豊後国岡を治めています。現在でも豊後竹田市で中川氏は続いているそうですよ。途中で養子を迎えているので血は絶えているそうですが。この地は現在、住宅地となっています。
-深草大亀谷内膳町-
-中川屋敷を東から-
-中川屋敷を南から-
十二番目は「深草大亀谷金森出雲町」です。圖には「金森出雲守」と記されています。金森出雲守可重の屋敷がありました。金森雲州は「金森法印」の名で有名な金森飛騨守長近の養嗣子で、茶人です。この地は現在、住宅地となっています。
-深草大亀谷金森出雲町-
十三番目は「加賀屋町」です。圖には「前田肥後守」と記されています。前田中納言利長の屋敷がありました。圖では「肥後守」となっていますが、肥前守が正しいみたいですね。前筑の長男で、父の死後にはその後釜として五大老・秀頼傅役に就任しています。この地は現在、家や店が並んでいます。
-加賀屋町-
十四番目は「桃山町丹下」です。圖には「本多丹下と記すもの有」と記されています。本多飛騨守成重の屋敷がありました。「鬼作左」と恐れられた本多作左衛門重次の長男です。この地は現在、住宅地となっています。
-桃山町丹下-
この町には、栄春寺と言うお寺さんがあります。このお寺さんの山門は伏見城の城門であると伝えられています。
-伝伏見城門(栄春寺)-
十五番目は「深草柴田屋敷町」です。圖には記されていません。誰の屋敷があったか不明です。「深草 柴田屋敷」ではなく「深草柴田 屋敷」と区切るみたいですよ。この地は現在、近鉄伏見駅前としてスーパーやマンションが建っています。
-深草柴田屋敷町-
十六番目は「桃山水野左近東町・西町」です。圖には「水野左近太夫」と記されています。水野淡路守重良の屋敷がありました。羽柴武蔵大納言家康の近侍であった水野対馬守重央の長男です。この地は現在、住宅地となっています。
-桃山水野左近東町-
十七番目は「桃山最上町」です。圖には「最上駿河守」と記されています。圖の注釈に「最上駿河守義光」とあるのですが、駿河守に叙任されたのは嫡子の家親ですので、そっちの屋敷があったのでしょう。最上出羽守義光の次男で、家康の近侍を務めています。この地は現在、国道を挟んで発展した町となっています。
-桃山最上町-
十八番目は「桃山町正宗」です。圖には「仙台中納言政宗」と記されています。伊達左京大夫政宗の屋敷がありました。羽柴仙台中納言は前に触れましたね。この地は現在、住宅地となっています。
-桃山町正宗-
十九番目は「深草越後屋敷町」です。圖には記されていません。誰の屋敷があったか不明です。この地は現在、住宅や店があります。
-深草越後屋敷町-
二十番目は「桃山井伊掃部東町・西町」です。圖には「井伊掃部」と記されています。井伊掃部頭直孝の屋敷がありました。井伊修理大夫直政の次男です。大河ドラマで井伊家が主役となっていますが、彼に出番はあるのでしょうかね。この地は現在、住宅地となっています。今回参考にさせて頂いた圖の作成および発行を手掛けた吉田地図販売株式会社があるのもここですね。
-桃山井伊掃部東町-
一旦ここまで。閲覧ありがとうございました。