私が見ているフェイスブックのサイトに「Japanese Culture & Spirit 日本文化と精神」という箇所が有り最近ここに興味深い記事が書かれていました。
それが下記のものです。(少し省いたカ所も有ります。)
講道館柔道に感嘆した勝海舟
「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮(きわ)む」
これは勝海舟(1823〜1899年)が講道館館長、嘉納治五郎(1860〜1938年)に寄贈した書である。この書から、勝海舟の高い教養と深い美意識を推し量ることができる。
さて、『究極の剣術とは』
合気道の達人塩田剛三氏は、ある時弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と尋ねられた。
すると塩田氏は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と言ったという。
この塩田氏の話で坂本龍馬が初めて勝海舟に会いに行った時の話を思い出した。
時は文久2年12月9日のこと。
幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介状を得た坂本龍馬は、門田為之助、近藤長次郎と共に、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟の屋敷を訪れた。
その時、坂本龍馬は「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」と、場合によっては勝海舟を刺し殺す覚悟で勝邸を訪ねている。
海舟自身も後に「坂本龍馬。あれは、俺を殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時俺は笑って受けたが、落ち着いていて、何となく冒しがたい威厳があって、良い男だったよ」と回想している。結局、この時の出会いで勝海舟は坂本龍馬を弟子にしてしまった。
近藤勇所有刀
阿州吉川六郎源裕芳(あしゅう きっかわろくろう みなもとのすけよし)
刀長75.5cm。新選組局長・近藤勇が、稽古用に使用したと推測される刀で、慶応元年(1865)に作刀されました。京都東山霊山歴史館蔵 霊山歴史館について | 幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」 (ryozen-museum.or.jp)
多くの剣術では「後の先」つまり「相手が抜いてから、相手を切る」。これぞ達人の所以ありと言われるが、究極の剣術は「先の先」、つまり『相手に刀を抜かせない事』に行き着く。
勝海舟の差料は、名刀「水心子正秀(すいしんし まさひで)
剣と禅を極めた彼だからこそ使いこなせた剛刀だ。
しかし彼はそれを決して抜くことはなかった。
成願義夫 記
武道の世界では、よく「後の先」とか 「先の先」ということが話題になりますが
後の先は理解しやすいのですが「先の先」とは、どういうことだろう?
と何方も一度は考えたことが有るのではないでしょうか。
まぁ、各人「先の先」についての理解などはありますでしょうが中にはトンチンカンな理解をしている人も見受けられます。
「理解度」は、その人の武術の実力を現わしているように私は思っています。
さて、皆様にはどのように思われますでしょうか。