ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典57(47人目)

 

~スメルジャコフ(対決)~

 イワンの一度目の訪問時(5日目)

 スメルジャコフの入院する病院にイワンが面会に来たとき、たいそう衰弱していたが、何かをほのめかすように左目を細めている。イワンは、「賢い人とはちょっと話すだけでも面白い」という言葉を思い出した。理路整然と、自分に疑いが向くことはないということを説明して、イワンを納得させた。【⇒第11編:イワン6:スメルジャコフとの最初の面会】

 

 イワンの二度目の訪問時(3週間後)

 マリアの家で暮らしている。顔がいきいきしており、肉づきもよくなっている。イワンは、自分ではフョードルを殺すことはできないが、だれかに殺してほしいと思っていたはずだ。だから、フョードルが殺されることを前もって知りながら、モスクワに発ったのだと言うと、イワンが急に立ち上がって、拳でスメルジャコフを殴りつけた。「弱い人間をなぐるなんて恥ずかしいことです、若旦那!」と言って、泣き出した。そして、父親を殺す人間として、ドミートリーだけでなく、自分のこともあてにしていたことが、門の前での会話でわかった。それまでさんざん父親から言われて断っていたチェルマシニャー行きを承認したのが、父殺しを黙認するという合図だったと、スメルジャコフは主張する。あなたも共犯なので、余計なことを言わない方がいい。再び、「賢くおなりくださいまし」と言った。【⇒第11編:イワン6:二度目のスメルジャコフ訪問】

 

 イワンの三度目の訪問(公判前日)

 スメルジャコフ:「ほんとうに、ほんとうに今までご存じなかったんですか?」

 顔つきがすっかり変わり、ひどく肉が落ちて、黄ばんでいた。目が落ちくぼみ、下まぶたに青い隈ができていた。テーブルの上には、イサーク・シーリンの箴言集が置かれていた(グリゴーリーの愛読書)。スメルジャコフは、イワンが「すべてを知って」いながら「自分一人に罪をおっかぶせるため、芝居を打っているような気がしてならなかった」のだが、どうやらそうではなかったということに、ようやく気が付いた。スメルジャコフが、靴下から三千ルーブル取り出すと、イワンは恐怖で震えだし、「狂ってる!」と叫んだ。「ほんとうに、ほんとうに今までご存じかなったんですか?」「いや、知らなかった。ずっとドミートリーのしわざだと思っていた。兄貴! ああ、兄貴!」と、イワンは両手で頭をかかえる。「あのころは、いつも大胆でいらしたのに。『すべては許される』とかおっしゃって。なのに、今はもうすっかり怯えきって!」と、かつて崇拝していたイワンが、何もわかっておらず、口先だけの臆病者だったことに失望している。

 

 真相

 あの夜、スメルジャコフは、穴蔵の底に階段で静かにおりて横になり、大声でわめきたてた。「ぜんぶお芝居でした」。ベッドに寝かしつけられ、夜どおし小さなうめき声をあげながら、ドミートリーが現れるのを待った。「あの方がフョードルさまを殺すのを待ち受けておりました……これは、もう確実なことでございました。なにしろ、そうするように仕組んできたわけですから」。三千ルーブルが枕の下にあるというのは、スメルジャコフがドミートリーに伝えた嘘だった。封筒は、スメルジャコフの助言によって、聖像の後ろ側に移されていた。したがって、ドミートリーは人殺しをしても何も見つけられず、強奪の疑いだけがかかる。

 一方、スメルジャコフは疑われることなく三千ルーブルを持ち去ることができるという手筈が整っていた。横になっていると、フョードルが叫ぶ声が聞こえて、グリゴーリーが飛び出して行ったが、その後はしーんと静まり返った。起き上がって外に出ると、庭に面した窓が開いている。フョードルは、部屋の中をせかせか歩き回っていた。「つまり、生きてる、ってことでございます。畜生、って思いました!」。そこで、「ぼくです」と声をかけると、フョードルは「来てたんだ、来て、逃げてった!」「グリゴーリーを殺しやがった!」と言う。たしかめると、全身血まみれになっているグリゴーリーが塀ぎわに倒れていた。

 そこで、「すべてにけりをつけてしまおうと、とつぜん決心した」。グリゴーリーに見つかる心配はない。唯一の心配は、マルファが目をさますことだけが、「ぼくはもう欲望のとりこになっていて、息がつまりそうでした」。そして、フョードルに、「あそこに、ほら、立っています、開けてあげてください!」と、グルーシェニカが来ていると嘘をつく。フョードルがためらうのを見て、「ぼくのことを怖がってるな」と思った。そこで、「例の合図をこつこつやると、すぐさまドアを開けに、駆け出していった」。スメルジャコフが、部屋の中に入ろうとすると、立ちはだかってとおせんぼをする。「叫び声におびえて、茂みのなかに隠れてらっしゃいます、ですから、あなたさまが書斎に行って、ご自分で呼んであげてください!」。そして、「ほら、そこの茂みに、あなたを見て笑ってらっしゃるでしょう」と言うと、窓から身を乗り出した。スメルジャコフは、テーブルの上にあった一キロ以上もありそうな文鎮を、後頭部めがけて打ち下ろした。

 「声ひとつあげませんでしたよ。そのままふいに、へなへなとすわりこんだだけです。ぼくは二度、三度と打ちおろしました。三度目にぐしゃっと割れた手ごたえがありました。フョードルさまは血だらけの顔を上に向け、ふいにどうっと倒れました」。自分のからだを調べると、血もついていなかったので、文鎮をぬぐってテーブルに置き、聖像のうしろから封筒の金を抜き取り、封筒を床にほうりなげた。金は庭のりんごの木の洞に入れておいた。それから二週間余り、金はそこに眠っており、退院の日に取り出した。グリゴーリーが正気を取り戻せば、ドミートリーが来たという証人になるので、マルファを起こそうとして、懸命にうめいた。そのあとは、ご存じの通りの展開だった。

 翌日の朝、病院に運ばれる前に、ほんものの発作が起きて、まる二日、意識不明になった。「じゃあ、あのドアはどうなる?」イワンは、別人のように穏やかにたずねた。「あのドアのことなら、グリゴーリーさんが開いたのを見たという話は、たんにそう思い込んでいるだけのことですよ」「はっきり申しますが、あの人は人間じゃない、頑固な去勢馬と同じでございます。じっさいに見ておりませんし、たんに見たような気になってるだけのくせして、がんとして譲らないんですから」。このドミートリーの証言も、スメルジャコフには有利に働いた。封筒はわざと破った。自分のように事情を知っている人間なら、わざわざ封を破らずとも、間違いなくその中に金が入っているとわかるので、破る必要はないので、封筒を破ることで自分への疑いをそらすことができる。「おまえ、まさか、ほんとうに、そういうことを、あのとき、あの場で考えだしたわけじゃないだろう?」「すべて、前もって考えぬいておいたことです」「そうか……てことは、つまり、悪魔が自分から手助けしたってわけだ! いや、おまえはばかじゃない、おれが考えていたよりも、ずっと賢い……」。

 

 スメルジャコフ:「これはあなたが本気で教えてくだすったことです」

 イワンが、いまお前を殺さずにいるのは、法廷で答えさせるためだと荒々しい口調で言うと、スメルジャコフは、「あなたはご病気です。」と同情的な口調で言った。そして、「すべては許されている」「神がなければ善行もない」と主張していたイワンに導かれて、自分はこのような考えにたどり着いたが、今では、あのころのイワンはもういない。すべてを告白したあと、札束の上からイサーク・シーリンの本をのけて脇に置いて、「この金、持って行って下さい」と言った。

 

――以前には、これぐらいの金をもってモスクワか、もっと言えば、どこか外国で生活が始められたら、などと思ったこともございます。そんな夢を抱いておりました。それもこれも、《すべては許されている》と考えたからです。これはあなたが本気で教えてくだすったことです。なぜって、あなたはあのころ、いろんなことをお話しくださいましたから。無限の神がなければ、どんな善行もありえないし、そうなったら、善行なんて全く必要なくなるとね。これはあなたが本気で教えてくださったことですよ。ですから、ぼくもそんなふうな考えにたどり着いたんです。

 

――あなたはとても賢いお方ですから。お金が大好きでいらっしゃる、それは存じております。名誉も愛しておられる、なにしろ、ひじょうにプライドの高いお方ですから。女性の美しさとなったら、もう大好きをこえておられる。でも、何といっても、安らかな満ち足りた生活がしたい、だれにも頭を下げたくない、――何といっても、それがあなたの本音でございます。法廷であんな恥をひっかぶり、自分の人生を台なしにする気なんて、なれるはずがありませんとも。けっきょくあなたは、お子さまのうちでいちばんフョードルさまに似てらっしゃるんです。あの方と、魂まで瓜二つでございます。

 

 スメルジャコフ:「イワン様! さようなら!」

 「おまえはばかじゃないぜ」「昔は、おまえのことをてっきりばかと思っていたが。いまのおまえはまともだ!」「ぼくをばかだと思ってらしたのは、あなたが傲慢だからです」。イワンは、法廷で見せてやると言って、札束をポケットに入れる。「おれがおまえを殺さなかった理由はただひとつ、明日、おれにとっておまえが必要になるからだ」と言うと、「殺したければ殺してください。いますぐに殺してください」「それも、おできにならない」と苦笑した。「なんにも、おできにならない。以前はあんなに大胆だったお方が!」。スメルジャコフは、最後にもう一度札束を見せてくださいと言って、十秒ほどしげしげと眺め、「さあ、帰ってください」と言った。「イワンさま!」「なんだい?」「さようなら!」。【⇒第11編:イワン8:スメルジャコフとの、三度めの、最後の対面】

 イワンが立ち去ったあと、首を吊って死んだ。【⇒第11編:イワン9:悪魔、イワンの悪夢】

 サモワーを片付けるために部屋に入ったマリアが第一発見者だった。マリアはすぐさまアリョーシャのところへ走った。アリョーシャが駆けつけると、「スメルジャコフはまだぶら下がったままの状態でいた」。「だれにも罪を着せないため、自分の意志と希望によってみずからを滅ぼす」と、書き置きしていた。【⇒第11編:イワン10:「やつがそういうんだよ!」】