【悟り】
 「悟り」とは、学問的な知識ではなく、あらゆる思慮分別を超えたところにあるものです。それは、考え出すものではありません。ただ、直感的に、ありのままの事実を受け入れることです。しかし、それは、自分自身の「先入観」や「思い込み」によって妨げられています。それらを排除し、世界の実相を見抜くことが悟りの境地です。悟りの知恵を「菩提」、それを求める心を「菩提心」と言います。

 
【縁起】
 仏教の真理の1つに「縁起」という考え方があります。縁起とは、全てのものは、個別独立には存在しておらず、相互の関係性によって成り立ってるという考え方です。世界とは、関係性の総体であり、それは、人間も例外ではありません。関係性とは、原因と結果の因果関係のことです。何事にも必ず原因があり、原因もないのに、何かが起こることはありません。その原因に、ある一定の条件がそろった時に、はじめて、ある特定の結果が出ます。それらを変えることは出来ません。変えられない結果を後悔することが苦しみの原因となります。


 
【無常】 
 
 この世界は、絶えず生成変化しており、常に同じ状態を保つことが出来きません。それを仏教では「無常」と言います。常に同じ状態を願うことは、苦しみでしかありません。例えば「生老病死」は、誰にでも訪れます。生きている限り、それらを避けることは出来きません。人が苦しむのは、生きているからです。死ぬことによって、生からは解放されます。悟りとは、その事実をありのままに受け入れることです。 

 
【煩悩】 
 生きている限り、人間には欲望があり、人間は、それに執着するものです。その欲望のことを仏教では「煩悩」と呼びます。煩悩こそが、悩みや迷いの原因となるものです。人間は、自分自身の煩悩によって、苦しめられています。その煩悩の火を消した状態が、悟りの境地です。それを仏教では「涅槃」と言います。 涅槃とは、サンスクリット語で「消えた」という意味です。全ての物事は「縁起」の因果関係によって決まっているとされています。そのため、自分の思い通りにはなりません。仏教では、人間の自由意志の存在については否定的です。欲望に支配され、自分の思い通りにならない人生は、苦しみの連続でしかありません。

 
【分別】 
 悟りとは、どこにでもある、普遍的なものです。それは、何処かに探し求めるものではありません。真実とは、現実世界を離れたものではなく、すでに実現しているありのままの存在そのもののことです。しかし、自分自身の煩悩がそれを覆い隠しています。本来、自己と世界は、一体であるはずです。それをわざわざ人間の側が分別しています。そのため、世界と一体とならなければ、真実は見えてきません。悟りは、外側にあるものではなく、自分の心のうちに、既にあるものです。それは、言葉で表現出来るものではありません。ただ比喩によってのみ、それを推察することが出来ます。言葉とは、何かを分別することです。それが悟りを妨げています。悟りの境地とは、世界を分別せずに、一つのものと見なすことです。そのため、言葉では、悟りの境地を表現することが出来ません。