変わるということ | ナックリンの部屋

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日々のちょっとした出来事や思ったことなどを、気ままに綴るブログです。

「変わる」と言うか、「成長する」って意味でしょうか・・・。


人は年を重ねるともう変われないという人がいますが、

私はそう思いません。

人は何歳からだって変われるし、成長できます。


ただし、自分が一番認めたくない事を認める勇気がないと、

変わる事は絶対に出来ないでしょうけれど。

年をとるとそれが中々難しくて、

結局は勇気がなくて自分を・・・自分の人生を、

ただひたすら「これで良かった」と丸めこもうとするから、

年をとって変われない人が多いのは、

きっとそのせいじゃないかなと感じます。


50歳になっても、60歳になっても、

自分の人生のいくつかのあの決断、選択は間違っていたと、

認める事の出来る人は凄いです。

もう後戻りもやり直しもきかない年齢になってから、

それを認める勇気のある人は少ないですけれど。

それが結婚だったり、職業だったりする場合には、

余計認めたくはないでしょうね。


若い人が特に勇気や柔軟性があるという訳ではなく、

彼らはまだこれからだったり、やり直しがきくという分、

失敗や変化を受け入れやすいだけのような気がします。


でも、年齢にかかわらず、

失敗は失敗と認めなければ決して前進も成長も出来ません。

そこでまた結局自分を丸めこむだけでは何も変わりません。

また、ただ認めるだけでも何も変わりません。

そこから結局は逃げてしまうだけなのなら、それは同じ事ですから。


心のどこかでは「違う!」と気づいていながら、

満たされない気持ちや虚しさを感じたまま、

結局は偽物の人生を後生大事に握りしめて死んでいく・・・。

「だって、こんなものじゃないの?」ってうそぶきながら生きていく・・・。

そんな人生よりは、怖くても認めて、

これからだって本当の人生生きた方が百倍マシじゃないですか。

だって、せっかく生まれて来て、まだまだ動けるんですから!


本当の事を認めるのが、なぜそんなに怖いのか私にはよく分かりません。

自分の人生を本当には一度も生きないまま、

本物を何一つ知らないまま死んでいく事の方が、

私にはよっぽど怖くてたまらない事です。



先日ある人から借りて読んだ本はとても面白く、

一気に読んでしまいました。

普段は全く読まないジャンルの小説だったのですが、

偶然、ちょうど私が最近色々考えていた事とかぶっていたこともあり、

読み始めたら止まらなかったです。


50代のその女主人公が凄いなと思ったのは、

最後に自分は夫に「愛されなかった」と認めたところ。

若い頃の自分の配偶者の選択が未熟で、

想いが本物ではなかったとも認めたところ。

彼女は愛されてもいなかったでしょうが、

彼女自身も相手を愛していなかったと気づいています。

普通なら「でも少なくともあの頃は確かに愛し合っていた」

と丸めこみたいところだと思うのですが、

スパっと「そうではなかった」と認めています。


そこまでは本当に潔かったのですが、

最終的には結局「愛」を必要としないかの様な方向に持っていき、

違った意味で自分を丸めこんでしまった点は残念というか、

全く共感できませんでした。


その最後のシーンを私は潔いとは全く思えず、

結局最後まで彼女は臆病でええカッコしいの、

人を愛する事を知らない人なんだなと思っただけでした。

夫との離婚を決意して新たに一人のスタートをきる自立した女性ではなく、

私には、とても弱くて臆病な女性という印象が、

最後の最後で残ってしまいました。

きっと愛するという意味さえ知らない人なのでしょう。


彼女からは愛されることへの渇望と、愛に対する臆病さばかり感じます。

彼女はそんな苦手な「愛」というものを、

自らの人生からただ遠ざけ、排除したかっただけなのかもしれません。

うまく関わってこれなかった苦手な愛から解放されてスッキリ!みたいな、

それだけの話になってしまったような・・・?


愛に「大して意味ない。なくても大丈夫」というレッテルを貼り、

自分の幼稚な「愛」の観念は棚に上げてうそぶく。

例えば本物のヴァイオリンの素晴らしい演奏を聴いたこともなく、

自分でも弾けない人が、

「ヴァイオリンってあまり良い音出ないし、こんなもんだよ」

と言ってるようなもの。

逆に本当のヴァイオリンの音色を聴いたとしても、

そもそも本物も知らないし、何よりも本物を求める心がないから、

それが本物だとも分からず、

むしろ「それ、ヴァイオリンじゃないよ!」って否定すらするかもしれません。


本物を知らない癖に、本物の存在を否定する。

まるで蛍が月の光を嘲り、蟻塚が富士山を笑うようなものです。

それと同じ様に、本当に人を愛したこともない、本物の愛を知らない彼女が、

そんなレッテルを「愛」に貼る資格などないと思うのですが。


「男は決して女の望むようには愛さない」とか、

「○○も、死んだ妻をあれほど愛せる人だからこそ逆に、

決して自分を望むようには愛することはないだろう」とか、

「愛される」ことばっかりで、

自分が「愛する」っていう発想が最後まで全くないのにもビックリでした。

アホか!って思います。


幼稚な幻影みたいな愛に対するイメージを抱き、

その未熟なイメージ通りに自分を愛してくれる人を求めるだけで、

本当の愛や自分が愛するという事を知らない。

男の生きざまを問わずに、ままごとみたいな優しさの男を選ぶ。

そういう男を純粋だとか良い人だとか思ってしまう・・・まるで子供ですね。

そういう男は純粋でもなければ、本当に優しい訳でもないのに。


ただ一緒にいて楽な相手にしただけなのに、

それを「安らげる」という言葉にすり替え飾り立てすにはいられない。

どうしても自分に酔いたくてたまらないのでしょう。

女性が記念日にこだわるのもそのせいなのでしょうか?

私は記念日に興味がない人間なので、

結婚式やハネムーンなどの思い出にしがみつく女性の心理は理解できません。


表面的な優しさだけを見て、本当の男の姿すら知らないし見ようとしない。

上っ面のイメージだけを見て、その男の本質を見ない。

本物の男も、本物の女も知らない。

そういう女性は凄く多いと思います。

そしてそういう人は、人を愛するということも当然知りません。


彼女は愛されなかった事を潔く認めたものの、

愛することに向き合おうとはしませんでした。

愛を信じず、関わらず、愛する事もしない。

結局は生活環境が変わっただけで、

彼女自身の人生の本質的な部分は何も変わってはいないのです。


誰だって嫌でも時間がたてば現実は見えて来て気づきます。

でも、彼女の問題点は、

物事の本質を求めないという姿勢にあるような気がします。

現実に気づいて認めたからと言って、それだけでは何も変わりません。

現実を認める事と本質を求める事は全く違うことですから。

それを彼女はごっちゃにしてしまっています。

多くの女性が「楽なこと」と「安らぎ」をごっちゃにし、

「ただの未熟さ」を「純粋さ」と履き違えてしまいがちです。

まさにある本の中で登場人物の王子様が怒ったように、

「大切なものもそうでないものもごっちゃにしてしまっている!」のです。


本物の愛はどこにでも簡単に転がっているものではないし、

誰の人生にでも訪れるというものではないのでしょう。

もしかしたら、人生でどんな形であれ本物の愛に触れられたとしたら、

それはとても稀な事なのかもしれませんね。

多くの人は本物の愛など知らないまま結婚して家庭も持ちます。

恐らくはそれが普通の事なのかもしれません。

結婚や家庭や人生をやっていくのに、

本物の愛や生きざまなんかなくてもやっていけるのも事実でしょう。


それでも、確かに本物の愛や生きざまは存在するのです。


その本を貸してくれた人とは、正反対の感想かもしれません。

一部ですが、これが私があの小説を読んだ感想です。

この間はうまく説明出来ませんでしたから。