【精神疾患の高齢者介護記録・11】:今一度、自分自身の決意を確認する回顧録 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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2011.3.11 東日本大震災


大震災1




大震災2






大震災3







あれからもう3年が経とうとしている…









私にとっての震災は、

母親の看病との闘いでもあった。...










揺れが収まってから直ぐに母親の部屋に飛んだ。











「寝ている…」









呼びかけには応じていたのだが、

後日談では、2010年師走くらいから

記憶がほとんどない。








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2013年のクリスマスイブから年が明けて今現在、
我が母親はほぼ寝たきりの生活になっているので
この時期の容体に酷似していたのである。









当時は、外国人に資産を吸い上げられてから
トンズラされた直後で、私と2人っきりであった。









しかし、今回はステディを嫁さんとして迎え、

ルカも帰っている。







そう大した事件があったわけではないのに
このような事態になったので、

かなりコタエタ。。。







わけがわからなかった。




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さて、話を戻して。。。



2011年当時は、母親はまだ要介護は取っていない。





心療内科通いであったが、毎回毎回私が付き添った。




医院は「認知行動療法」も積極的に採用している
前向きな方針だったが、今にして考えれば
高齢者特有の症状については先生がご専門ではなく
母親にはそもそも向いていなかったかもしれない。




精神疾患は、患者の数だけ背景と症状が違い、
「心の風邪」 という間違った認識が一般に蔓延したが
特定のウイルスが分かってワクチンで治まるような
類の病ではない。「風邪」 に例えられてはたまらない。





人の数だけ病に起因する症状が違うために

医者や家族、会社の同僚など、その人の

取り巻く人間関係まで鑑みなければならない。





そうすると、外野がどうのこうの言っても

原因を排除できない。




脳を病み、判断力や思考力が落ちているのに、
患者本人が 「患者力」 を発揮出来なければならず
その点で昔から 「怠け病」 などと言われるのだ。




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母親は2006年来、この先生が主治医となっていて
近所の医院から離れて独立開業してからもずっと
この先生に看てもらっている。もう5年目だった。




2011年が明けて2月くらいにはもう通院拒否だった。




「眠れないので薬だけをもらって来て欲しい」




そう頼まれて、何回かは2週間に一度行っていたが
今にしてみれば、どうしてこの時期既に記憶障害の
脳梗塞であったはずなのに眠れないからという言が?




痴呆症の初期であったのだ。。。




そして、地震が起こった。




計画停電になった。






私は私で、当時既に仕事が手につかなかった。
意欲が減退していて自分も別の心療内科通い。





まず、自分がしっかりしなければと奮起して、
福島が水蒸気爆発起こしたというFMを聞きながら
車で自分の通院先へと走り、買い物をしガスを入れ
当面の食料の確保など現実的に行動を起こして
どうにか修羅場を潜る態勢を整えていた。




夢中であった。



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一方、母親の通院先は、23区外で計画停電になり
薬を取りに行くことも侭ならなくなってしまう。
とにかく近所のケア24に相談し、往診してくれる
心療内科ほか様々な医療団体に当たってみた。




1ヶ月を凌いだころ、大学の勤務医である方から



「これは、入院させないと駄目ですね…」

と言われてしまった…。








「私が紹介状を書いて明日届けさせますから
大学病院で入院させることにしましょう。」




しかし、ベッドが空いていない。



その前に外来で診てもらわなければ
入院の待機リストにも入れてもらえない。




緊急を要した。




NETで自分でも当たって電話してみた。





「困っているのは貴方だけでは無い」

と言われたりしながらも、負けずに食い下がり、



「じゃこういう状況下でも積極的な精神科治療を
してくれる病院を他に案内してくださいよ!」

と、必死に叩きまくって次々当たっていった。




「まずはカルテをFAXして頂いて下さい。
診てみて状況によって入院させましょう」


という病院に当たれた。




2011年4月下旬に、ようやくその日が来た。





診療中についに言ってはいけないことを
母親は譫言のように目を閉じて言った。






「私、死にたいんです…」





「続」