【精神疾患の高齢者介護記録・12】:今一度、自分自身の決意を確認する回顧録 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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自虐史観撤廃、外国人参政権反対、
この徹底が私の信条であるために
それに至った介護記録が続いている。



過去記事も含めて、全ての実体験に
お付き合い頂ければ嬉しい限りです。



再びの長文投稿をお許しください。





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皆さんにとっての東日本大震災も色んなご経験を通じ
色んな想いで、改めて命とは生きるとはということを
現実をもって考えさせられたり、悩んだりの機会
だったことでしょう。




私にとっては母親の生存にも立ち向かわねばならず、

世間の騒動とともに我が家の存亡と闘っていた時期

で必死でした。



私自身が「躁状態」で無我夢中だったと思います。




震災の混乱でそれまでの心療内科とコンタクトを
取ることができなくなって、次の手を模索して、
ついに母親は緊急入院を要する危機に直面した。




前記事のような紆余曲折があって、外来受付と
場合によっては即入院を相談に応じてくださった
その病院での初診において、母親は意識朦朧の中、




「私、死にたいんです…」




といってしまった。






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それで「医療保護検査入院」が即時決定した。




本人が茫然自失で死の危険を伴う場合、
本人の意志を確認できるできないに関わらず
医師と家族の判断で入院させる決定ができる。



ただ、医療上の保護者を家庭裁判所から
認定を受けるという手間が発生するが、
私がその認定を受けて強制入院となった。




実は母親は膀胱炎も併発していた。



死にたいと言って精神科入院した母親は、
そのためにベッドに「拘束」されたようだ。




膀胱炎で尿意が5~10分で起こるので
拘束されては意識朦朧でもタマラナイだろう。



入院後1週間目で面会を許された時に、
私は母親から入院させたことを罵られた。




「あんたの顔なんか見たくない」




心が折れそうになった。




でもこれは、精神疾患の被害妄想の「症状」だ
と言い聞かせて、何を言われても耐えていた。



それでも私は毎日のように時間を捻出して見舞った。




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そして、主治医の先生との面会で初診以来の
診療結果と展望を説明して頂いて助けられた。



「必ず、日常生活に耐えるレベルまで治します」



そう、言い切ったのである。



医師でそう言い切る診断をするには相当な
裏付けがあってのことであろう。



「病名はいくつか疑われましたが、統合的にみて
 パーキンソン症候群だと診断を下しました。

 

 まず、左目の奥に微細な脳梗塞があってこれが
 記憶障害を起こさせる原因です。


 高脂血症でありだいぶ寝たきりの期間が

 続きましたからね。他にも年齢並みの脳梗塞が

 見受けられますが、来て頂いた時期的に早過ぎても

 遅くても不可能な投薬治療を始めました。

 救えると思いますよ。

 

 私も実は貴方と同い年なんですよ。

 実家の大阪に病弱な母親を残しています。


 ですから、入院中は私自身が母親だと思って

 診ますから、貴方はご自分の時間を取って下さい。


 ただ…

 

 今後、何年先になるか断定することは出来ませんが
 これは認知症の初期で、いつかは認知症になります。
 

 退院後の容体で施設に入所されることもご家族で
 相談してください…。」




これも奇遇だろうか。私と同級生の先生とのご縁、




そんな先生が 「母親と思って診ます」 と言ってくれて
私は何よりも安心した。諦めないで本当に良かった。




当時まだステディであった嫁さんもルカも応援してくれた。




何度もみんなでお見舞いに行った。励ませるほどに
母親は回復していったのである。




奇跡に思えた。



見舞い1





見舞い2


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その後、母親は連休から梅雨にかけて段々と顔色を戻し
会話が成立して行くようになって行った。



いろいろ聞いて見たが、その時に入院以前の最新の記憶が
2010年の師走で、東日本大震災の事実を知らないと分かる。



あの強烈な揺れを知らなかったとは…





7月には退院訓練で一時帰宅出来るようになって
要介護認定調査を受けて 「介護1」 を受けて退院。



見舞い3

8月にはケアマネとの相談でデイケアへ通ってもらい
体力の維持と認知症の防止、社会復帰を目指した。



しかし、当初はまた難渋であった。




うだるような暑さで通所拒否が続いて再び寝たきりに…


私の不安は募って行った。



そんな状況にケアマネさんが紹介してくださったのが

「ヨガやルーレットをやっている楽しい施設」。



そこでお遊戯のような楽しい体操をしたり
決定的だったのが「老年並みのお化粧」である。




老人でも、「女性」である。それなりの身嗜みがある。



これを実践指導してくれた時、母親がモデルとして
皆さんの前で綺麗にしてもらえた。



その日帰ってきた母親が開口一番に、



「美容院に行きたいねん。連れてくれる?」



と切り出してきた。




嬉しかった。



休みを取って連れて行くことにした。





「でも、秋になったし電車で外出訓練を兼ねよう」



前向きな機会にしたかったのだ。



そう決めて連れ出したが最寄り駅まで難渋した。

足が縺れそうになっていた。

相当歩けなくなっていた。




そして帰りに「美味しいラーメン食べたい」と言い出し
何年かぶりの外食を二人きりでして無事帰ってから、
私は自分を労い、報われる想いがして、
祖父様の写真を見ていてそれを抱いて、

部屋で1人で泣いた。




自然と涙がこぼれてきた。



後にこれは自分の病の「症状」だと知ることになる。





そして、思った。外人に騙されて金まで吸い上げられた
母親を突き放したことを祖父様に謝りたい…。




祖父様の贈位の日が、自分の誕生日の丁度一年前であり
幼い頃から大好きな 「戦艦大和」 沈没の日に旧ビルマで
英霊に昇ったと知ったこと、そういうことを思い出した。

(以下過去記事参照)

※【精神疾患の高齢者介護記録・6】

※【精神疾患の高齢者介護記録・7】



その初心に還えれたのである…




これによって、私はずっと共に闘ってきた

ステディとの結婚に向けて行動を開始する決意を

固められたのである。




母親の努力と頑張りに感謝したい。




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それまでも何年間も待たせて、そして何度も何度も、
母親を見捨てられる状況ではない私は言い続けていた。




「君には華がある。人気もある。だから…
 僕より君に相応しい人が居ると思う。
 別れた方がいいよ。」



と言い暮らしてきたのだ。




しかし、ステディは頑なに断ってきた。



自分の母親を想い、祖父様を想い、

自虐史観が解けて行動する自分も含め
そういう自分を好きでいてくれた。



だから




「絶対に別れない、結婚がすべてじゃないよ」




と言ってくれていた。




本来、母親との同居を嫌がってはいなかった。


むしろ、 『同居しようか?』



協力的なことを言ってくれていた。




自分のこれまでの発言の身勝手さを情けなく思えた。



そして、介護を始めてみると、介護保険を利用して
段差解消工事をおこない、それと同時に家の修繕が
かなり行えるとわかって、自分の伝手で業者選定し
図面も描かせてもらって環境面での状況を整えた。




これによって、


結婚しよう。

彼女を迎え入れよう。



そう、決意が出来たというわけである。





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その記念として、私の40歳の誕生日の記念も込みで
ステディと私の大好きなディズニーシーへ

母親を連れて行った。

退院後TDS


次の日に、私の心療内科の通院にも3人で行った。




全ての状況を私の主治医にも今後の治療のために
参考にしていただければと思った。




それまでも感情が制御できずに泣けてきて困って
何だかわからなかったが、先生が私にも診断した。





「君は双極性障害2型なんだ。報われると泣けてくる
 それは症状だから心配しないで。泣いて下さい。」




情けなく感じていた自分自身も理解ができた。



これで一気に、家族3人と一緒に生きられる展望を
持つことが出来るようになったのである。





「続」