本日、4月7日は旧日本海軍の戦艦大和が
沖縄水上特攻(天一号)作戦の途上、
坊の岬沖海戦において撃沈され、
事実上、旧日本海軍連合艦隊が消滅した日
ということになります。
1941年9月、艤装工事中の大和
1934年のロンドン海軍軍縮条約失効後に
英米が建造するであろう戦艦を凌駕すべく
当時の日本の造船・軍事技術を結集させて
出来上がった 【不沈戦艦】 であるという
ような認識が一般的だと思う。
では、それがどのような意味があったか。
今回は拙い私の “酒場の知識的”なことを
記憶の及ぶ範囲で記事にしてみます。
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1941年12月 公試中の大和
ロンドン海軍軍縮条約失効後の新戦艦構想に
太平洋での戦闘にのみ念頭を置いていた
旧日本海軍は、パナマ運河を横断することを
考慮せずして行うことが出来た。
つまり、それは船体の “全幅” を考慮せず
設計出来ることを意味した。
大和の特徴は、
7万トンにも及ぶ史上最大の排水量と、
また史上最大の46cm主砲3基9門を備えた
桁外れの戦艦であった。
このような桁外れた戦艦を建造するのに
必要な船体は、“全幅が約40メートル”
【大鑑巨砲主義】 の時代にあっては
大きな船体で、より長い射程距離の
(最大飛距離約42km ≒ 東京-八王子か)
より威力のある主砲を積むことが出来る
設計を前提として生まれた。
それが大和であった。
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しかし、時代は航空機の機動性が
戦闘の鍵になる…。
皮肉にも、空母が搭載する艦載機により
機動部隊を編成して戦闘する時代を
切り開いたのもまた旧日本海軍であった…。
という、お話は知り及んでいる方々も
結構多いと思う。
のちの連合艦隊司令長官であった山本五十六も
1934年に新戦艦の基本構想を行っていた当時、
航空本部長であり、
『これからは、海軍も空が大事で
大鑑巨砲はいらなくなると思う』
と、構想チームに漏らしている。
結局のところ大東亜戦争で戦艦大和は、
不遇の戦艦になる。
1944年10月レイテ沖海戦での巨艦の大和
この海戦において、姉妹艦の戦艦武蔵が
米軍航空機と9時間以上の戦闘の末、
推定で魚雷約20発、爆弾約17発を受け、
満身創痍になって撃沈。
大和は翌日、サマール沖において
米軍護衛空母船団と遭遇している。
この時が唯一、46cm主砲の本領を
発揮できた機会だとされているが
決定的打撃を与えたかは定かではない。
そして、1945年4月6日。
沖縄本島に上陸した米軍を叩くため
戦艦大和は、山口徳山沖より
軽巡洋艦と駆逐艦8隻からなる
10隻の艦隊編成で出撃。
翌7日、鹿児島坊の津沖において
米軍航空隊約300機と相見える。
前年、姉妹艦武蔵攻略に7次に渡る攻撃で
手間取った米軍は、左舷への集中砲火を
意図して大和の転覆を図った。
(12本命中した魚雷のうち
1本を除き全て左舷に集中)
結果的には後部艦橋基部から
第3主砲弾薬庫に引火して急速な
被害拡大に影響し、延いては
ボイラー室にて蒸気爆発を起こして
2時間あまりの戦闘の末、
午後2時23分、撃沈。。。
これが同時に連合艦隊の終焉となった。
『これからは、海軍も空が大事で
大鑑巨砲はいらなくなると思う』
正しく、【戦艦の時代の終焉】
でもあったわけだ。
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さて、そんな大和を初めて知ったのは
ご存知…
宇宙戦艦ヤマトをTVで見たことが
きっかけだったことを思い出す。
まず目を惹くのは、言わずと知れた
伝家の宝刀 【波動砲】 だろうが、
その下部に出っ張る 【球状のアゴ】
正式には 【バルバスバウ】 と言う。
(球状船首)
これは意外と有名ではないか?
力学的に波の抵抗を和らげて
船体の安定と推進力に寄与している。
戦後、高度経済成長を支えた日本の輸出入
には欠かせない大型船舶の設計製造にも
貢献したことは言うまでもないだろう。
私が知った豆知識では、大和と武蔵は
冷房設備を完備しており
【大和ホテル】 【武蔵御殿】 などと
言われていたことがあったそうだ。
他にも、手術室も完備された充実の
医療設備のほか理髪店の営業まで
あったと言う。
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ここで取り上げたいのが、実は前述した
大和の象徴である、あの46cm主砲に
関連する技術である。
それは主砲としての軍事的技術ではなく
2500トン以上もする主砲塔自体を
旋回させる技術で、それが実は…
【東京の名所】 に転用された
ということが意外と知られていない
のでご紹介したいと思う。
写真は建造中の1番・2番主砲塔を
前部艦橋から臨んでいる格好だが、
手前の円形部分が2番主砲塔の基部
に当たり、これが主砲塔自体を旋回
させる 【旋回ローラー】 になる。
5000馬力もの水圧を動力源にした
この技術は…
ホテルニューオータニの最上階にある
回転展望ラウンジに応用されていたのである。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック
の観光客を収容するためにオープンした
同ホテルは、1000室を超す規模であり
開業当時、東洋最大と言われた。
回転展望ラウンジは世界から来られたお客様に
有名な富士山を見ていただこう、
という考えから実現したと言います。
1時間に1回転、東京の眺めを堪能できる、
あの滑らかな回転に、戦艦大和の技術が
応用されていたということ…。
大和自体の技術は軍事的最高機密であった
ために、戦後連合国軍から求められても
決して公にしないよう設計図等の資料は
ほとんど処分されたということもあって、
私にとって初耳の時は驚きでした。
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今日はそんなことを考えながら、
海上自衛隊の方々にも敬意を表して
過ごしたいという日であります。