『皆さんに囲まれてとてもお幸せですね』
11年前の春のこと、ショールを羽織った
祖母を車にのせて大きい病院へ診察を
受けに行った時のこと。
血液検査でカリウムが多く不整脈の原因に
なるということで診察を受けましたが、
その時診て頂いた副病院長の先生は、
祖母が母親、兄、私、そして息子である
伯父に連れられてにこやかな表情でいる
ことを見て
『お家にお帰りください』
と祖母には入院など必要ないと診断されました。
しかし、夕刻になって内科の部長先生から
電話で連絡を受けて
『このカリウム値は高すぎるので入院する
ことをお薦めいたします。』
と、しきりに伝えてきました。
『あなたの母親でも入院させますか?』
と母親が聞き返すと、
『勿論、そういたします。』
と聞き、改めて病院へ診察に行き即入院
することになりました。
1週間の点滴による入院治療。
カリウム値は下がりましたが、明治43年
生まれで、当時90歳の祖母にはこの
入院治療は別の障害を引き起こすことになりました。
食事を再開しましたが【嚥下】(えんげ)
が不能になってしまったのです。。。
空気か食物か、それを人は反射によって
感知しその機能を【嚥下】と言います。
これができなくなったことによって
普通に食物を飲み込んでいた反射に
支障が出てしまったわけです。
母親は激怒しました。
『副委員長先生は帰って良いと言った
のに入院させてしまって、祖母は
これでは希望通り自宅で過ごせなく
なったではありませんか。』
担当医は謝りませんでした。
誤診を認めることになるからでしょう。
***************
祖母は意思の疎通が既に難しい段階に
あったので、私は母親が老人病院には
入れたくないという気持ちを理解して
いましたし、何より祖母が元気だった頃
自分の部屋の船底天井を眺めながら
逝きたいと言っていた意思を考え、
引き続き自宅で介護できる可能性を
兄と手分けをして探ることにしました。
私の家は区境にあり、幸い隣りの区の
最寄りの病院では始まったばかりの
介護保険によってケースワーカーの指導
のもと、居宅介護を支援して下さる医療
を行っていましたのでそちらでお世話
になることにしました。
5月の連休明けに一時入院して、
中心静脈に『医療ポート』 を設置する
手術をしました。
これは、点滴では医療行為になりますが
半径5cmくらいの『医療ポート』 の範囲
なら一般人でも針を落とせるというものでした。
私は週に一回、製薬会社に通い点滴で
落とす栄養とクスリをもらうこと、
点滴を落とす装置のスピードを制御する
こと。そして、仕事柄夜半に帰宅する
ので、夜間の下の世話や体位交換
(同じ体勢で寝ると血行不全になって
周辺組織が壊死を越すので、体位を
変えてあげること)を担当して
母親には休んでもらうこと、
母親はヘルパーさんと昼間の介助に
専念してもらい、出来るだけで長い時間
祖母と居てもらうことを目指して、
どうにか家庭生活に戻すことに成功しました。
*****************
梅雨を過ごし、初夏の91のお誕生日
を共に祝い、暑い夏を凌ぎながら、
ついに9月を迎えました。
9月3日。
祖母のカテーテルから流れる尿の色が
赤みを帯始めました。
呼吸が深く長くなり、目を開けなく
なります。
『これはね。本人気持ちいいんですよ
明日、明後日が山場になりますね』
永の訣れの時は近づいていました。
私は、常に耳にヘッドホンをあてがい
祖母の大好きなクラッシック音楽を
聴かせ続けました。
そして、CDを替える時にはよく
傍らで語りかけました。
『ばあちゃん、酷いことも言ったこと
があったけど拙いボクを許してね』
そして11年前の9月4日未明。
祖母は静かに息を引き取りました。
私が仕事先から帰る5分前のことでした。
『どうしてもっと早く帰らなかった!!!』
母親に叱られました。
私は祖母が死後硬直を起こす前に指導を
受けた内容に従って、護り刀を持たせる
ように両の手を胸に合わせ、身体を正体
させて拭き清めながら語りかけました。
『ありがとう』
耳は死後一定の時間聞こえているという
話を聞いたことがあったので、それを
信じながら今までの御礼を申しました。
そして祖母にも母親にも謝りました。
『二人だけにして悪かった。ただ…
一人ぼっちでなくて良かったよ。』
母は父親を看取る時も独りぼっちでした。
だから今回は付き添うつもりだったのに。
『おばあちゃん、貴方の原付の音を
聞いて待っていたけど、聞こえたら
ホッとして旅たったのかもしれないね』
当時、付き合って半年だったステディの
言葉に何も言えず、ただ悔しい想いを
したものです。
11年経って、果たして血液検査で入院
を承諾したことが間違っていたかどうか
は分かりません。
ただその後奔走して望み通り住み慣れた
自宅で息を引き取ることが出来たことは
祖母も嬉しく思ってくれたと信じたい。
母親にも十分力になれたのではないかと
今、母親を看ていて思います。
**************
人の幸せは、生死や検査結果ではない
と思います。
死を賭しても、死期が知らされていても
今どう生きるかを重視する生き方があり
病院のベッドで死ぬより、自宅で家族の
誰かに看取られてそっと旅立ちたいと
いうのも、例えそれで生命が短くなった
としてもまた生き方ではないかと思います。
当時を振り返って、母親は私を見ながら
祖母を思い出しているようです。
母親はいつも一人ぼっちで大切な人を
看取り続ける人生で73を迎えました。
私は最後に残った家族として、母親に
再度一人ぼっちにすることのないような
生き方を考えたいと思います。
ステディも理解してくれていると思う
のであと4ヶ月、残された今年を3人で
暮らせる準備にあてたいと考えています…。
おばあちゃんも、それを望んでいる
と思います…。