私のブログを読んでいただいている
方々はご存知かもしれませんが、
私の母親はかれこれ6年、うつに
苦しんでいる。
始めの1年間は私自身にも知識がなく、
元気がないとは思いながら放って
おいたら日常生活にまで支障が出る
苦しみようで、さすがにネットで調べる
なり勉強して心療内科へ受診させた。
夫を肺癌により42で亡くし女手一つで
2人の息子を育て上げ、祖母の介護も
最期まで看取り、小さい頃の孫の世話、
そして、決定的だったのは少女の頃・
京都に棲んでいた頃からの長い友人が
癌に伏し、そのターミナル・ケアまで
献身的に行ったことだったのだろう。
その方は私も幼い頃から親しくして
いただいていた、とても気さくで明るい
おばちゃんだった。抗癌剤で坊主頭に
なりながらも、母親と私とステディの
4人で伊香保に旅行に行っている。
当時ある疾患で目を患っていた
ステディを励まし、
『ありがとう。楽しかった』
と抱きしめてくれる温かい
おばちゃんだった。
自分が癌で余命いくばくもない
というのに…。
ステディは泣いていた。
それほど良い人だった。
夫を早く亡くしている母親にとっては
唯一の 『心置きない』 本当のお友達
だったに違いない。
その方を亡くしてから本格的に
うつになったと思う。
それまでの人生は走りっぱなしだった。
ケンカをしても次の瞬間には忘れている
というタイプで、愚痴や答えの出し様
のない相談は多々あれども、
落ち込んで何も手につかないという姿を
見たことがなかった。
つまり、ずっと躁(そう)状態だった
とも考えられる。
その分、ココロの中に失ったものは
大きかったに違いない。
睡眠薬を飲んでから用を足すために
夜中に転んで、右手を亀裂骨折した
ことも、更にうつに拍車をかけた。
家事は完全にできなくなり、手紙を書く
ささやかな楽しみも無くなった。
昨年の暮れからは前期高齢者にして
寝たきりになり、体力筋力の低下も
著しくなった。
それを少しでも防ぐべく介護保険を
申請し、通所介護によってリハビリを
受けさせようと考えたが、
これが逆効果だったようだ…。
それは今日分かったのだが…。
要介護審査員が来るまでの1ヶ月
(←本当に行政って待たされますよね…)
でさらにうつが悪化し、日時・記憶など
おぼつかなくなり要介護2の判定が
降りたと同時に震災…。
通院していた心療内科には計画停電
地域で行けなくなり、週一度の通院と
いう習慣もなくなり、さらに寝たきりは
促進してしまった。
加えて5分に一度の頻尿…。
私自身も寝る時間を削られて、
もう限界だった。
ネットで検索したり、区で発行している
ハートページなどで当たれるだけ
当たってみて、NPO法人の在宅医療
センターから医師を派遣して戴ける
情報を得て、震災後はそこから提携
している医師の派遣でどうにか
凌いでいた。
しかし、4月半ばにいらっした先生に
『一度大きい病院で入院して看て
もらうべきですね』 と診断されて
しまった。
過去にも入院治療は勧められていた
が、本人の意志がない限り診断書が
出せない状態だったので、ついここ
まで悪くなるまで来てしまった。
手回し良く翌日には事務員の方が
紹介状を持ってきて戴いて、
その病院に予約しようと電話をしてみた。
すると、どうであろう…。
初診をして看たとして、ベッドが空く
のはいつか分らない、待機者が
それほど沢山いるという。
せっかく紹介してもらっても、
これでは意味がない...。
過去に通院していた病院の先生が
勧めていた病院にも当たったが、
同じようなことを言われた。
埒が明かない。
私は食い下がった。
『では、他に同様の入院治療をする
病院を知りませんか?』 と。
それを3件繰り返し、今の病院に
巡り合うことが出来た。
それが4月19日。
問診でも目を瞑ったまま。
『死にたい』 と言ってしまった。
これは本人の意志に関わりなく
『医療保護入院』 に当たり、
親族近親者(今回は私)が医療上の
『保護者』 になることによって、
半ば強制的に入院にすることになる。
精神科は自殺を防ぐため拘束ベルト
が付いたベッドに寝かされることになる。
衣類や長いものは首を吊る恐れがある
ので全て鍵を掛けたロッカーへ。
母親は頻尿が酷かったから、
入院当初は何度も何度もナースコール
して気を遣った。
余計にいじめられているような気も
したと思う。
『こんなところに閉じ込められて...』
『死にたい』 は、しょっちゅう言われた。
そのたびに苦しかった。
でも、聞くだけ聞いてあげようと
私もよく耐えたと思う。
そして1ヶ月。頻尿は単なる 『膀胱炎』
でお薬で治まって、まず安心した。
今までも内科医に訴えていたが、
本人がうつということで尿検査他、
精密に検査出来なかったため
膀胱緊縮を整える薬のみで対応して
いたことが間違っていた。
入院して検査しなければならなかった。
そして、CTとMRIによって脳の血流や
神経の働きを神経内科と連携して
検査を行った。
微量の放射性物質で心筋の働き、
その他関連しうる様々な検査を行って、
治療方針を絞って現在に至っている。
年齢並みの脳こうそくが極微細にある
が、問題は左眼球裏辺りに血流が
悪い箇所があって、それが歩行困難
と記憶障害、動作緩慢の原因
になっている。
うつによる合併症であるとは
言い切れないし、未然にこれらを診断、
治療することは難しかったとは
聞かされたが、この血流不全が
改善されない場合、5年・10年と
長い目で見て 『認知症』 になる恐れ
があると聞かされた時は茫然とした…。
しかし、特効薬の開発が進んでいたり、
漢方による改善がまず期待できると
いうので、ここ1週間は少し不安であった。
そして、今日。会ってみたら、
歩行はややおぼつかずとも軽やかで、
顔に表情が戻り、記憶障害も改善されて
いて、本当にホッとした。
いろんな会話をした。
午前中はイヤでも療養室に連れ出され
体操やボール投げ、歩行訓練をさせら
れるという愚痴。独りで病室に居てする
こと(できること)もなく辛いという苦言。
母親は祖母を看た時、介護ヘルパー2級
まで取得したほどだったから、
今やらされていることがイヤなのだな
と分かるし、私が寝たきりを防ぐために
介護認定を取ったことも逆に惨めな
思いをさせたのだなと想像がついた。
『認知症』 も視野に、と告げられた時は、
施設に入居させる資金面の問題と、
私自身が看るとしてその苦難を背負う
覚悟で、どうにも落ち着かなかったが、
私なりに母親に対して出来ることを
出来る限りしてきて、大分回復傾向に
あることを実感できて、
道は一つではない、可能性は捨てず
探すものだ、と思う。
それだけ分かってくることもあるし、
学ぶべきこともある。
そして何より大切なことは、
同じ目線に立つということだと思う。
それが = 『愛』 ということ。
夫を亡くしても健気に振る舞い 『愛』 を
注いでくれ育て上げてくれた母親。
自宅で逝きたいと言っていた祖母と、
親友であったおばちゃんへの母親の
至上の 『愛』 の介護。
そのおばちゃんが癌に犯されながらも
私のステディを気遣って
『ありがとう。楽しかった』
と言ってくれた『愛』。
通所介護のリハビリの提案も、
実はイヤであってうつに拍車を
かけた要因だったことも、
今になって 『愛』 を持って感じれは
分かることなのだ。
でも、体力と筋力の維持回復には
必要だからね、とは説得しましたが。
そしたら 『もし、朝起きてイヤな気分
だったら、先生に教えてよ。療養士の
方に今日は軽めで止めてあげてって、
伝えてあげるから』 って、
母親の気分を第一に考える優しい先生
にも巡り合えた。
それも、一縷の望みを捨てず、
とにかくつながる病院を探し当てた
私の母親への 『愛』 があったれば
こそだと、たまには言わせて
いただこうかな、と思う。
年末年始から震災を挟み、連休が
明けるまでのほとんどの時期を
人事不詳でいた母親が、
笑みをもらし、会話が成立し、
そして、家で独りで居る私を心配
する言葉ももらえた。それだけで
本当にねぎらってもらえた気分である。
帰りに数年前、ディズニー・シーで
お誕生日会をしたステディとの
記念写真を置いてきた。
『死にたいって思ったら見て。
死なれたら哀しませる人が
お母さんには居るんだよ。
だから、またいつか、必ず
笑って行ける日を楽しみに、
その日その時を過ごそう。
また来るよ。』
生きていれば出来ることはあります。
チャップリンが遺した言葉に、
【人生に必要なものは 『愛』
と 『勇気』 と 『少しのお金』 】
というのがあります。
同じ目線にたった 『愛』 があれば、
何をすべきが、何をしてあげるべき
かが分かる。
そして 『勇気』 があればオジ気ず、
あきらめずにすべきこと、してあげる
べきことに立ち向かうことができる。
そのための 『必要経費』 として
『少しのお金』 がいる。
このお金に関して 『少しの』 と
言っているところが興味深い。
互いに 『愛』 を持ち寄って、
認め合い助け合っていれば、
それほど余剰なお金は個人の
人生に必要はないと言っている
感がある。
必要以上のお金など個人の
人生にとっては逆にココロを
貧しく、みすぼらしくするだけだ。
『愛』 と 『勇気』 を持って
どう使うかが 『お金』 の価値であり、
一個人の生き様、心意気のような
気がする。
そういう面で人に嫌われるような
人間にはなりたくない。
肝に銘じたいと思う。。。