【震災6年1人生き残った私。
家族7人犠牲 家跡にただいま戻って
7人思い生きる】
私が朝ブログに書いた彼女の事がyahooに掲載されておりました
●家族で残ったのは一人きり。
昨春に大学を卒業し、
古里、宮城県気仙沼市内の保育所の管理栄養士になった。
食材の発注や調理を担う。
給食を頬張る乳幼児に気を配り、
アレルギーがある子に特別食を考える。(河北新報)

「社会人」になれたと、
支援してくれた人に感謝を伝えたい」。
被災した自宅跡で思いを語る三浦さん
★◎三浦美咲さん=宮城県気仙沼市=
「毎日いっぱいいっぱい。
でも、子どもたちが食べてくれるのはうれしい」。
三浦美咲さん(23)の言葉に充実感がこもる。
東日本大震災の発生当時、市内の高校2年生だった。
津波で曽祖母みわのさん(93)、
祖父秀雄さん(74)、祖母芳子さん(72)、
父芳弘さん(43)、母美江子さん(41)、
妹の美穂さん(15)と美輝さん(6)=年齢はいずれも当時
=が帰らぬ人となった。
家族で残ったのは一人きり。
杉ノ下地区の自宅も流され、親戚の家に身を寄せた。
心配する周囲から「7人の分まで頑張って生きて」と励まされた。
高校3年の時、面識のない人から手紙が届いた。
「人生は1人分。あなたの人生を生きればいいのよ」。
7人分。それが重荷になると気遣ってくれた。
「ふっと心が軽くなった」
大学に進み仙台市で暮らすうち、古里で働く思いを強めた。
親戚は頼りになり、
田んぼを委託した農家のおじさんは作ったコメを届けてくれた。
自宅跡の草むしりをしてくれるボランティアに
「申し訳ない」と思うことも。
支えてくれる人たちが古里にいた。
「社会人になったら人に任せっきりにできない」。
ひたすら勉強し、管理栄養士の国家試験に一発で合格した。
「震災遺児として授業料も生活費も支援をもらう私に、
試験に受からない選択肢はなかった」と多くの人に感謝する。
祖母と父、美穂さん以外、見つかっていない。
でも、あの頃の記憶のまま、自分の中で生きている。
「ただいま」。自宅跡は海に向かって風が強く吹く。
「当たり前のことが、当たり前ではない。毎日を大切に生きていきます」
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私は、何気なく毎日を生きております。。。。
しかし、こんなに強く生きている人がいるのですね
1度に、7人もの家族を失った
当時17歳の彼女は、
親戚にあずけられたそうだけれども。。。
絶対、もう泣かないと、
決めて目標を達成したらしいです。
本当に素晴らしい人です。
感動的です
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あと、
震災の為に学校を転校せざるをえなかった子供が、
いじめられてる。。。。
酷い現実もある事も忘れてはいけない
震災の事は、風化してはいけない事です
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東日本大震災だけでなく
私の友人は、熊本大震災を経験して、
毎日余震があったりした話しも聞きました。。。
大阪淡路大震災。。。は、もう22年も経つけれども
(生まれてなかった方々も多いかもですね)
その頃の被害は、6434人もの方々が、亡くなりました。
午前5時46分に起こったから、まだ被害が少なかったのです。
私の友人も結婚したばかりで、
彼女の旦那さんが、もしも、出勤している時間だったら、
もしかして。。。命をおとしていたかもしれないらしいです。
調度、彼女の旦那さんの会社が入っているビルが、
押しつぶされていたらしいです。
阪神方面の電話が、繋がらなかった事を想い出します。
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色々な災害や災害以外で苦しんでいる人達がいる。。。
忘れてはいけない現実だと思います。